■名を継ぐ者 3
フォン、と風を切る音が響く。
金色の髪に蒼い瞳。
鬼と呼ばれる容貌を持った男――否、未だ少年と呼んでも差し障りのない程の若い鬼子が剣を振るっていた。
端正な顔立ちをしていたが、その顔の頬から顎にかけて薄らとは言えぬ火傷の跡が残っていた。
淡い色をした花弁に向けられて振るわれた刃は、流れるように動く。
舞い落ちてくる花弁を風圧でふわりと動かしたが其れが断たれる事はなかった。
たんとリズミカルに足を大地に踏みしめると玉のような汗がぱたぱたと落ちて行く。
汗を手の甲で拭いながら、リズヴァーンは焦りを隠せずにいた。
――何故、師匠のように花が断てぬ。
この庵に身を置くようになって、七年の月日が過ぎた。
脆弱だった肢体は見る見るうちに成長したが、剣の腕は思い描いていた程上達することは無かった。
マメだらけの、骨張った自分の手を見下ろし、忌々しげに目を細める。
師は基礎的な動作しか教えてくれていない。
自主的な訓練で春が来るたびに花を断とうとしているだけ。
だが、三度目の春を迎えた今でも一枚も花弁断てたことが無い――。
此処まで上達が遅いのは、己に剣の才が無いと言うことなのかと……鬼の容貌を受け継ぎし者……リズヴァーンは思い悩んでいた。
「精が出るなあ」
師と仰ぐ男が、緩く笑みを浮かべ乍腕組みをして立っていた。
最近は富に感覚が研ぎ澄まされているというのに、師の気配を察することは一向に出来ない。
師は吹く風のように、気付けば其処に在るのだ。
緩い動作で鬼子は剣を降ろし、師に向き直る。
元々大男といった部類ではない師と成長の早いリズヴァーンの目線は同じ位置にあった。
されど泰然自若とした男の姿は、鬼子よりも何倍も大きく見ゆる。
「師匠。――何時になれば、本格的に剣の師事をなさってくれるのですか」
しかしその大きさに怯む事なく、鬼子は真っ直ぐに師を見詰め、押し殺した声問うた。
リズヴァーンの焦りにも理由があった。
時は永遠にあるわけではないのだと知ってしまったのだ。
……七年前のあの日より、師が方々に手を回し集めてくれた文献――。
それらを繙くと、断片的なものながら、あの女性より奪う形となった鱗は、龍の逆鱗だと知る事となる。
そうして、その逆鱗を持ちし者は間違いなく龍神の神子であろう、と。
師は言った。
お前と神子が出逢ったのも龍神の導きによるもの。
何らかの形でお前は神子に関る事となるのだろう――と。
神子は異界から招かれるものらしい。
なればこそ、時間や時空を隔てる事も何ら不思議ではない。
……近い将来、必ず神子はこの地に再び訪れる。
其れは予感めいたものだったのかもしれないが、リズヴァーンは其れのみを目的として生きてきた。
来るべき時の為に、強くなくてはならぬのだ。
厳しい直弟子の視線を感じ取っているのかいないのか、男は伸びて来た無精髭を軽く手で撫で付けるようにしてううむ、と唸ってみせた。
「教えるべき事は教えとるつもりだがなあ」
悠々とした口振りに、リズヴァーンは奥歯を噛み締めた。
尊敬できる人物だ。
だが、―――。
釈然としない気持ちは、胸の内に留まり続ける。
「……お前さんは、見えておらぬのだよ。其れに気付かぬ内は風に躍る花弁は断てまいて」
「見えていない?……何を言って……」
問いかけた弟子の言葉を遮るように、男は髭を撫でていた手を動かし制する仕草をしてみせた。
「最初から答えを教えてしまっては、師とは呼べぬ。自分で考え、そうして気付け」
そう言われてしまえば、其れ以上問う事も許されずリズヴァーンは口を噤んだ。
――一体何に気付いて居らぬと言うのか。
外見は大人に近いように成長しても、心は未だ成長せぬまま……。
歳若いリズヴァーンには、男の言っている事が理解出来なかった。
ふ、と緩く溜息を吐き、此れ以上の助言も与えてくれそうにない師を見遣り、剣を収めた。
「其れだけを言い此処に?」
効果的ではあったが、態々足を向けて来る事もないだろうに。
しかし師は首を横に振り、其れだけが目的では無い事を示してみせた。
「東側の床をなぁ、ちょっと踏み抜いてしもうて……修理を頼んで良いか?」
「…………またですか」
見た目以上にずぼらな男は、謙遜のしがいもない程不器用で、この数年でリズヴァーンは自分が随分器用になったと思った。
態とらしく溜息を吐いて見せると豪快に笑いながら少しも悪びれもせずに悪いなぁ、と男が謝っている。
男のそういった性格が、リズヴァーンは嫌いではなかった。
少なからず救われた部分もあったと思う。
だからこそ、結局は男の面倒を見てしまうのだろう。
剣を片付けようと動き出したところで、思い出したように師に向かって髭をちゃんと剃るようにと告げた。
「……見えていないもの、か……」
何のことかと考えを廻らせてみても、思い浮かぶ事柄はなかった。
師に見えて、自分には見えぬもの。
自分には無くて、師にあるもの――。
床の修繕を終えてから、師の昼の食事を作っている最中もその事ばかりが頭を占めている。
その結果、眉間の皺がどんどん深くなるばかりである。
雑多の作業も随分と手馴れたもので、考え事をしながらでも容易に支度は出来る。
其れを師に知られると「料理は愛情だ」などと言い出すので黙ってはいるが。
四つ足の長方形の台に乗せ、師の部屋へと足を向けた。
「――師匠?」
彼の人の部屋の前に立っても人の気配がしない。
平素でも感じさせぬことは多々あるのだが、食事の時だけは師は気配を殺しはしない。
ならば、何処に行ったのか?
遂に食事の時間も守らなくなったかと呆れかけたが、別の場所で師の声が聞こえた気がし、視線を其方へと向ける。
丁度死角になっていて、位置的に見る事は叶わない。
仕方なく、台を部屋の前に置き、気配を殺いで足を動かした。
僅かに覗いた先には、矢張りと言うべきか、師が座っている。
――小鳥やリス等が当然のように、師の周囲を取り巻いていた。
しかし、小鳥達はリズヴァーンの気配に気付いたように過敏に反応を示し、散って行った。
「嗚呼、リズヴァーンか。如何した?」
師、一人の時には逃げなどしなかったのに、己の気配を感じただけで逃げる。
仕方無いと割り切れれば良かったのかもしれないが、そうは出来なかった。
気配は完全に殺せていた。
だが……。
「…………」
言われずとも、悟った。
この胸に宿る焦燥や、心の迷い。
自然と対極に突き進みかけていた己自身が問題であったのだ。
盲目の師は、呼吸をするように自然を受け入れていた。
其れが、自分と師の違い。
見えないものを、見えないというだけで見ようともしなかった。
「――見えるように、なるでしょうか」
自信がなかった。
迷いや我を無くして迄剣を振るえるか如何か。
そんな不安を見透かしたように、師はただ明るく笑い、頷いて見せた。
――そして、そんな師の態度が示すかのように。
この日初めてリズヴァーンは、花を断つ事に成功したのだった――。