■名を継ぐ者 2
「――ほう、ならばリズヴァーンよ。お前は其れを手にした事で此の場所に飛ばされたと言うのか?」
 普通であっても気味悪がられるような類の話。
 尚且つ其れを口にして居るのは鬼の一族の末裔。
 厭わぬ方が可笑しいのに、男は悠々と、いや、寧ろ興味深そうな素振りすら見せながら鬼子の話を聞いていた。
「…………」
 其れ、と示された逆鱗をぎゅ、と握り締め、鬼子は俯いた。
 白いその鱗を握り締めると、何故だかあの時助けてくれた女の人に抱かれているような、そんな感覚に包まれ僅かな安心感が胸に広がる。
 だけれど、……。
 自然、鬼子の表情は曇ってしまう。
「如何したら良いのか分からぬ、か。まあ、行く宛てもあるまいて」
 真実を突いたその言葉に、何も言い返せ無い。
 何処に行けども迫害される運命。
 せめてもう一度、あの人に会いたいと思慕を募らせてみたところで其れはもう叶わないのかもしれない。
「これこれ……そのような悲惨な顔をするものではないぞ」
 気配を感じたのか、軽く笑うようにし乍男は朗らかに語る。
 手当をして貰った事に感謝をしてはいるが、幾ら他人事だとは言えこんな風に笑われると哀しくなった。
 自分が鬼子だから、その不幸を笑っているのだろうか。
 ぐ、と歯を食い縛りながら耐えていた所、予想外の言葉が男から放たれた。
「ならば……如何だ?私と共に暮らしてみぬか?」
 其の言葉に面を上げ、男の顔を眺めてみても、からかっている風でも何でもない。
 真意が読み取れない。
 思えば最初から、何を考えて居るのか解らない男だった。
「警戒するな、と言う方が無理だろうが……此処には粗末ながらも部屋と食物がある。若し望むのならば、ある程度自分の身を守れる程度に武術を教えてやる事も出来る」
 無条件でこのような話を持ちかけてくる男を信用しろという方に無理がある。
 人間というものに対し、強まった警戒心が身体を強張らせた。
「まあ全くの善意と言うわけでもないが……」
 ――来た。
 じっとりとした汗が、額に浮かぶ。
 如何にかするのならば既にしているのだろうから、何か別の魂胆があったのかもしれない。
 けれど、鬼子のそんな考えとは裏腹に、男は次の瞬間格好を崩すように笑った。
「実は私は家事一切全く駄目でなぁ、ほとほと困っておったのだ。だので此処に置く代わりに家事をやって欲しいと思った次第だ」
 情けない話だと笑って言ってのけた男を見ると、肩からがくんと力が抜ける思いがした。
「さぁ、腹が減っているだろう、一先ず飯に……ん? おい……」
 思いがしたというよりも、実際に抜けてしまっていたのかもしれない。
 それまでの疲労と安心感が一気に押し寄せ、やがて男の声が遠くなり、ああ、意識が薄れていっているのだなとぼんやりと考えていた――。


 次に目を開くと、そこは見知らぬ部屋だった。
 上体を起こし、頭の側面を押さえると頭を左右に振った。
 そうして、思い出す。
 全てが夢ではなかったことを。
 その時、着物が清潔なものに取り替えられているのに気付き、体を見下ろし逆鱗を探した。
「――ない……?」
 まさかあの男は端からあの不思議な力を持つものが目的だったのではないかと、顔から血の気が引いた。
 今度は慌てて周囲を見渡してみる。
 すると、枕元に己が着ていた服が畳まれており、その上に逆鱗が乗せてあった。
 抱き込むように逆鱗を握りこむと、きつく目を瞑る。
 奪われていなかった……。
 疑っては、安堵して。
 そんな不毛な事の繰り返しばかり。
 此処に来て漸く其処まで疑う事でもないのではないか、と思えるようになった。
「…………助けてくれた」
 そう、自分を助けてくれた。
 この逆鱗を持って居たあの人と同じ様に。
 此方に危害を加える素振りも無い。
 だったら。
 信用しても、大丈夫じゃないのだろうか。
 心を落ち着けるように、大きく息を吸い込む。
 唇から漏れ出る息は重いものだったが、昨日よりは幾分も心が軽い。
 此処には、敵はいないのだ。
 ハラリ、と一枚の花弁が室内に入りこみ、今が春であることを思い出した。
 綺麗な色をした花びらは、桜の花弁。
 あの人の髪と、同じ色。
 肩の力を抜くと、ぐぅ、とお腹が鳴った。
 そう言えば昨日から空腹のままで、胃はからっぽだ。
 眠りに落ちる前に、男が食事の事を言っていた気がすると節々が痛む身体を無理矢理起こし、部屋の外へと這い出る。
 逆鱗をただ、大事そうに握り締めて。

 建物の造りは古く、手入れも其れ程行き届いていない。
 大の大人が歩いたら抜けてしまいそうだと思って居たら、矢張り、所々穴が空いている部分があった。
 直しても穴が空くのか、其れとも唯単に男がずぼらなだけなのか。
 どちらとも判断がつかず、ただ、首を捻るしかなかった。
 床を踏み抜かぬよう注意を払いながら歩いていた時、庭――いや、そういうよりも森、と云った方が正しいだろうか――に、あの男の姿が見えた。
「……え?」
 その男の手には、剣。
 桜の木の傍で、悠然と構えている。
 男は目が見えないと言っていた。
 隙だらけの構えに見えた。
 しかし、次の瞬間。
 男は、はらはらと舞い落ちる桜の花弁を風に動きを合わせるかのようなしなやかな動きで真っ二つに断ってみせたのだ。
 それも、一枚や二枚じゃない。
 地面に向かって落ちてきていた花弁、全てを。
 その動きに、背筋がぞぉっと凍った。
 それと同時に、腹の底から湧き上がるような感覚がある。
 カチン、と剣を鞘に収め、男がゆるりと鬼子の方を見遣った。
「目が醒めたか。三日も目を開けぬから流石に心配していたぞ」
「……三日、も」
 剣を振るっていた事などなかったかのように振舞う男に、真っ直ぐな視線を向ける。
 その強い視線に気付いたのか、男は剣の鞘を撫でるようにしながら、笑ってみせた。
「こういうものは日々の積み重ねだからなァ。……まあ。目が見えずとも出来る事はあるものだ」
 鬼と呼ばれた一族。
 其れでありながら、何も出来なかったあの日。
 若し、力があったのならば。
 若し、強くなることが出来たのならば。
 守ることが出来だだろうか。
「……――あの時、武術を教えてくれると……言ってました。……だったら、剣を……剣を、教えて欲しい……」
そう言った時、男の表情が俄かに歪んだのは、鬼子の気のせいだったか。
「……失われた物は、如何にもならぬのだぞ」
全てを見透かすように、男は言った。
されど此処で引くワケにはいかない。
「――もう、失わないために」
迷いの無い言葉に、男は長く深い溜息を吐き出し、空を仰ぎ見た。
いや、その目には何も映す事がない故に、仰いだだけだった。
「……ならば誰にも負けぬ程に強くなれ。もう二度と、失う事がないように――」
重々しく呟かれた言葉は、男もまた、過去に大切なものを失った経験があったからか……。
この時より、男は鬼子の師となった――。
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