■名を継ぐ者 1
「……ぉ、ねぇ、ちゃ……?」
眩しい光に視界が白一色になり、ふっ、とそれまで包んでくれていた温もりが消えた。
周囲を見渡しても、先程までとは違い、とても安穏で静かな場所であるように見える。
顔がじくじく痛むのは、火傷を負った所為?
それでもそんなに痛く感じないのはもはや痛覚が麻痺しているからなのかもしれない。
だのに、掌のなかにしかと握られた鱗のようなものの感触は、やけに鮮明だ。
「何処に、行ってしまったの……?」
一族は既に居ないことが解っている聡すぎる少年は、自らを救ってくれた人物へと呼び掛ける。
「ひ、と、りに……しない、で……」
本当は喋るのも辛いはずなのに、幾度も幾度も呼び掛け続ける。
それに帰ってくる声は無くて、嗚咽を堪えるように噛み締めた唇からは錆びた鉄の味がした。
震える膝に力を込め、何とか立ち上がる。
よくよく周囲を見渡せば、其処は見たこともない山の中だった。
ギャァ、ギャァと極近くでカラスの鳴き声が聞こえ体が震え上がった。
――クタバルノヲネラッテイル――
あの濡羽色の鳥は、例え鬼であろうとも死者には別け隔てなく群がってくる。
息を堰切らせ、転がるように山を駈けた。
まるで何かに追われているような錯覚に陥り、幾度も後ろを振り返ってはよろめいてしまう。
「ァ……ッ」
何度目だったか、背後を見たときに足元に突き出ていた木の根に引っ掛かり、胸からズサッと転んでしまう。
握りこんでいた鱗は決して手から離さない。
これが唯一あの人と自分を繋ぐ、絆なのだから。
口の中に入り込んできた砂利を吐き出しつつ、終にはその場に座り込んでしまった。
転んだ際に擦ってしまったのかやけに腕が痛み、恐る恐る肘の方を見遣る。
土に汚れた腕。
擦れてけ皮の剥げた肌。
そして、そこからは――赤い血が、流れていた。
「ぅ、あ、ぁ……っ」
赤はすべてを奪った。
村も、其処に住む人々も。
その概念が頭を支配しているのか、今はただ、その赤い色がひたすらに恐い。
カタカタと手が震え、逃げ出したいのに、体が少しも動かない。
深い絶望感に捕われていたその時、静かであるのに、やけに凛とした声が響き渡った。
「其処に、誰か居るな?」
咄嗟に身構え、声のした方を見やると、人であるはずなのに、人であらざるかのような雰囲気を纏った壮年の男が立っていた。
こちらが何か答える前に、ずっと目を瞑ったままの男は何事か考えるように軽く眉根を寄せる。
「お前は普通の人間では持たぬ力を、持っているな?」
高圧的な口調であるのに、何故か其処に在るのが当然なような気分にさせられる、不可解な男だった。
「……ッ、う……」
「まるで、遠い過去に其の血が絶えたと言われて居る鬼のようだ」
目を開けばこの容姿か直ぐに鬼の一族である事が知れようのに、男は目を決して開かず、何か別のもので感じ取っているらしかった。
鬼、という単語に思わず息を飲み、地面に手をついたまま、じりじりと男と距離を取ろうとする。
しかし、次の瞬間男が発した言葉は、予想だにしないものであった。
「そうか。とうの昔に絶えたと思って居たが、そうではなかったのだな。来なさい、鬼子。怪我の手当をしてやろう」
怯えた風の相手に向かい、何処か朗らかさの交じった気安い声音で言ってくる。
普通であれば、鬼と聞けば、恐れ、忌み、迫害しようとする筈なのに。
一体どんな罠が潜んでいるのかと警戒する心が体を強張らせていた。
その様子に気付いたのか、男はただ苦笑するように唇を歪める。
「何も取って食いはしない。私は俗世の事から離れているからな。当然飯も用意しよう。さあ、来い」
うっすらと開かれた男の目は焦点など合っておらず、白く白濁していて、盲目であることが知れる。
姿が見えぬから、鬼と解っていても恐ろしくはないのだろうか。
どちらにせよ目が見えぬ相手であるのならば、大人の――其れなりに良い体格の男と言えど、いざと言う時にも如何にでもなるだろう。
此処まで休み無く駈けて来た所為か、腹はこの上なく空いていた。
しぶしぶと云った感じに一つ頷いてから立ち上がり、歩き始めた男の後を数歩分はなれてついていった。
その距離を気にする事もなく男は先に山を歩く。
背中を無用心に他人に見せる姿は、子ども程度に如何にかされないと言っているような余裕すら感じられた。
山の麓の方ではなく、山の奥深くに庵を抱えていると男は言う。
何故隠れるように暮らす必要があるのだろうかと不思議でならなかった。
「……なぜ、山に……?」
ぼそぼそと聞いた言葉は男の耳に届いたのか、男は考えるように暫しその色を映さぬ目で天を仰いだりしていた。
「昔、私は剣の師であり、学問の師でもあった。だが、戦で視力を失い流れ流れてこの鞍馬山に辿り着いた。……今では、仙人や、天狗などと呼ぶ者も居る」
天狗。
不思議な力を持つ者の総称。
確かに男は仙のような空気を持ちながらも、霞を食って生きているような感じはせずに、何処かしら生き物臭さを残している。
それで居て尚、人間と呼ぶには些か抵抗が生まれてくるから、そうなったのであろうか。
「そう呼ばれている内に、自分の名も忘れてしまった。覚えているのは先生、と呼ばれていたあの頃のみ」
本当は忘れてなどいないのだろう。
だが、忘れたいと願っているのかもしれない。
「そう言えば鬼子。お前の名は何と言うのだ?」
ふと、思い出したかの如く向けられた問いかけに、思わずぎゅっと両手に抱え込むようにして白い鱗を握り締めた。
この男は、自分には害を成さないかもしれない、と。
そんな考えが頭を過ぎるが、人間に対する恐怖からか
己の名を紡ぐ唇が震える。
名を名乗るまでに、随分と時間が掛かってしまったように思うが、男は其れをも黙って待っていてくれた。
「リ、……リズ、ヴァーン……」
小さな声音で紡がれた言葉。
其れが、意図せず白龍の逆鱗を手にしてしまった少年の名であった――。