第二話
、と。
私をそう呼んでくれるのは今となってはひとりだけ。
直ぐ傍に居てくれる、いつも何時も幸せそうな彼女だけ。
……彼女が私の名を呼んでくれるから、私は、“”を忘れずにいられる――。
しとしとと雨が降り続いているのを横目に、私は小さく溜息を吐いた。
其れは雨を厭う感覚だったか、はたまた安堵のものであったのかは自分にすら解らない。
けれど、きっと。
こんな風にどんより曇った空と、薄気味悪いとすら感じる雨の世界にいるのが私には一番似つかわしいような気さえする。
「……凄く厭な天気の筈なのに、凄く落ち着くというのは厭味以外の何でもない」
洩れた言葉は音にするつもりなどなかったのに、雨の音に混じって外の世界へと飛び出てしまう。
――授業をサボりひとりきり、人気の無い校舎裏で佇む。
いや、実際は人気の無い場所ではない。
移動教室の際に通る人も、極稀にだが存在する場所。
探せばもっと人が来ない場所が見つかるかもしれないけれど……此処が目下の私のお気に入りの場所だった。
「……」
雨の音しか聞こえなかったのに、何時しか幾つかの足音が此方に近づいてくる。
腕時計を確認すると丁度授業と授業の間の休み時間。
日が当たらない、じめじめとした余り気持ちの良くない場所を通り抜けようとするなんて、奇異なことをする。
そう思ったが、そんな場所を“お気に入り”としてしょっちゅう居座っている自分が居ることに気付き、思わず苦笑した。
……気分が乗らない。
次の授業も此処でサボってしまおうと決め、通り抜けるであろう生徒に視線を向けることなくやり過ごそうとする。
別に此方に気付いたとて、特に気にする者も居ないだろう。そう、タカをくくって。
しかし、その予想は見事裏切られることになる。
「――あれは……。悪い、後から行く」
聞きなれない声が、此方を見咎めたようにそう友人達に言い放った。
その言葉に対して疑うこともないのか「遅刻するなよ」という軽い応酬がされ――、足音がひとつ、此方に近づいてくる。
壁に寄りかかった身体は、動きたくないよと訴えているように重く、だるい。
俯き加減の頭を僅かに上げるのですら億劫で、近づいてくる足音に気付かないフリをして視線を地面に落とし続けた。
「……先輩……ですよね」
名を呼ばれ、少し驚く。
先輩と呼ぶからには私よりも下の学年なのだろう。
余り自分の評判が良くないとは知っていたが、多学年にまで知られているとは思わなかった。
言いがかりをつけられる事を覚悟して、渋々重い頭を持ち上げ、其の顔を見た。
何故だろうか、話したこともないはずなのに、何処かで見た顔のような気がする。
好意的ではない目。其れは誰かに似ている気がする。
――嗚呼、そうか。こいつは。
「気分でも悪いんですか。だったらこんな場所じゃなく保健室にでも行かれた方が」
あの、偽善者の弟、か。
「…………。別に、放っておいて」
顔も雰囲気も全然似てはいなかったけれど、目つきはそっくりだ。
私の素っ気無い口振りに些かムッと来たようで、眉が跳ね上がる。
――兄に比べると些か偽善者度は低いようにも見受けられ、冷静に観察している自分がなんだか可笑しかった。
「あなたに何かあれば、春日先輩もきっと心配します。ほら、立って」
気分が悪いという問い掛けに明確な否定をしなかったからか、具合が悪いのだと思い込んでいるようだった。
しかし、何ともまあ笑えてしまう。
“春日先輩も”?
そのあんたの言う“春日先輩”しか私の事を心配する人はいないじゃ無いか。
まるで自分も心配しています、とでも言っているようで可笑しい。
――嗚呼、でも。そうではない。そうではなかった。
きっとこの弟は、私が体調を崩した事で、其れを心配する“春日先輩”を心配しているのだ。
馬鹿馬鹿しい。
動かない私の態度を如何取ったのか、少しだけ躊躇う素振りをしてから、そっと腕を取ろうとする。
其の指が触れる直前に、何とも言い知れぬ恐怖感が胸を過ぎ去り、勢い良く払い除けた。
「あ……ッ、…………平気だって、言ってるでしょう」
後ろめたいわけじゃない。後ろめたいわけじゃない。
唐突のことに呆然としている彼を尻目に私は立ち上がり、校舎に向かい駆け出した。