第三話
「先輩?!」
まるで恐ろしいものから逃げ出すように駆け出した私の背後から、声がする。
放っておいてって言ったでしょう。
手だって振り払ったじゃない。
なのに何故、未だそうやって私を引きとめようとするの。
駆ける足を其の侭に、ちらりと背後を振り返って見てみると数瞬の逡巡の後、彼は私を追うように足を動かし始めた。
――如何して、追ってくるの。
(後から考えてみれば何の事はない、体調が悪いと思って居た人物が急に駆け出したら、倒れてしまう危険性があるかもしれないと思ったのだ。其処に他意などある筈もなかった。)
追いつかれたら叱責されるかもしれない。
そんなのちっとも恐くない。
だけれど、……上手く言えないけれど、厭だった。
理屈ではない、感情的な問題。
校舎の方へと向かう僅かな距離を雨の雫を頬に受け、走る。
渡り廊下に踏み入った際、背後を気にしたのがいけなかったのか、どん、と強い衝撃を肩に感じた。
「ぉ……ッ?」
「?! 如何したの?」
最初に頭上から漏れ出たのは男の声。
其れだけでは最初解らなかったが、続けざまに聞こえた声にその二人組の正体がわかり、思わず舌打ちをしそうになった。
「……別に」
咄嗟に口をついて出た言葉だが、前も向かずに走っていた私が言うには説得力がない。
私がぶつかった方はと言えば、私が謝罪の言葉を口にしないのは予め想定内だったのか何も言うことはない。
「――春日先輩、其れに、兄さん」
僅かな遅れの後に、背後に迫っていた影が声を発する。
其れに対して口を開いたのは、「兄さん」と呼ばれた男だった。
「何だお前、に何か用でもあったのか?」
まるで接点というものが見受けられないからこその質問。
其れに如何答えるべきか少々悩む素振りを見せながら、後輩に当たる男が口を開く。
「具合が悪そうに見えたのに、急に走って行ってしまったから」
其れでも逃げ出した相手を追って行くというのは些か軽率な行動だったかと言うように眉根を寄せた。
「……具合は、別に悪くない」
出来るだけ平静を装って言い切る。
些か険があるように響くのは故意ではなかったが、改善する気などまるで無い。
「偶にサボってるもんな。今回もそうだったんじゃねぇか? 譲、お前の心配し過ぎだ」
同じクラスであるが故に私のサボり癖を知って居るからこその発言。
でも、“何時も”ではなく“偶に”と言ったのは彼なりの思い遣りと言うヤツだろうか?
別段気を遣われる必要も無いというのに。
「――ねぇ、あの子。如何したのかな……? 迷子かな?」
最初に私の名を呼んで以来黙り込んでいた彼女が、不意に口を開いた。
唐突な発言。
だと言うのにまるで其れが当たり前であるかのように、彼女を除く私を含めた三人は即座に反応し、彼女の視線の先を追った。
――其処には、現代日本にはまるで似つかわしくない不思議な様相の子供が立ち、ゆっくりと微笑んだ気がした。
「――ッゥ!」
目まぐるしい展開に、ついて行けない。
気付くと濁流に流されてしまっている自分が居る。
そんな筈、無い。ありえる筈がない。
確かに雨は降っていたが、突然こんなに水が溢れかえることは無い筈だ。
夢を見ているのだろうか? いや、そんな筈は無い。
だって、こんなにも水が重たい。
重たくて、重たくて、体に纏わりついてくるようだ。
やがて水を掻こうとする腕すら動かなくなり、私の意識は水底に沈んで行った――。
意識の浮上は突然。
沈んでいた体をぐんと水底から引き上げられるような感覚だ。
けれども目を開けた先に腕を引いてくれた誰かが居たかと言えば答えは否。
目を開いた時に広がった世界が、見知ったものであるかと言えば答えは否。
更に言うと、知って居る人が居たかと聞かれても、私は否としか答えようがなかった。
「……遂に頭がイカれてしまった?」
自嘲気味に吐き出してみたけれど、そうだとしたら余りにも世界は不親切だった。
いっそのことこの状況が当たり前のように振舞えるくらいまでおかしくしてくれれば良いのに。
「――。ひとり」
そう。一人なのがいけないのだ。
これが私が作り出した脳内だけの世界なのか、はたまた身の上に異常が起こったのか、一人では判断がつかない。
彼女が居ないからだ。
何時も何時もしつこいくらいに纏わりついてくれていた彼女が居ないからだ。
如何してこんな肝心な時に限って傍に居ない?
求めている時に傍にいてくれないの?
「……望美」
初めて呼んだ気さえする彼女の名。
私の声は何故だかとても心細そうに響いてしまった。