知盛の背面は崖。踏み外せば再び這い上がってくるのは至難の業だろう。
まして知盛は今深い傷を負っている。落ちるだけでも死滅行為だ。
だがそれを知っていて、いや、死ぬからこそ知盛はそれを選ぶかもしれない。それだけは、させる気はなかった。
抉られた脇腹が熱をもったように熱い。
随分と血が流れ落ちているだろうが、そんな所に目を向ける暇はなかった。
知盛から決して、目を離さない。
獣のようでいて、死への諦めの良さは何とも武家の人間と言ったところ。
手負いの獣のような恐ろしさとは一線を引いている。
腹のじくじくとした痛みと知盛の動向に気を取られ、私は周囲に気が回っていなかった。
……だから、咄嗟の判断が、遅れた。
「敦盛!!」
ヒノエくんの声が聞こえた頃にはもう遅い。
敦盛さんが私と知盛の間に割って入ろうと其の身を動かしていた。
源氏とのやりあいで負ったのだろう、所々に傷ついた其の体を呈して――知盛を守ろうと。
「何のつもりだ」
敦盛さんの其の行為を止めるように言ったのは他でもない、……知盛だった。
「……私は一度滅した身。失われるものがあるのだとしたら、それが知盛殿であって良い筈がありません。……此処は私が」
「お前が俺の代わりに、だと? クッ、冗談じゃない……」
敦盛さんの言葉を遮るように知盛は嘲るように言った。
「……穢らわしい化け物に庇われ、戦場を離脱する程、俺は戦に飽いているわけではない」
侮蔑と嘲笑。決して心地の良いものではない旋律が奏でられる。
敦盛さんの心の内が分かった訳ではなかったが、動揺してしたのは確か。
それでも決して知盛の傍を離れようとはしなかった。
そんな敦盛3の背を、知盛はまた、思い切り私の方へ突き飛ばす。
再びこのような行動に出るとは思わなかったのだろう、敦盛さんの体は容易に傾き――その瞬間、知盛の姿が敦盛さんの影に隠れ、私の視界から掻き消えた。
以前はこれで譲くんがやられた。知盛は隙をついて突っ込んでくるのかもしれない。
そう思い身構えるものの、敦盛さんが私にぶつかる前に体勢を立て直し横に倒れこむように避けるまで、知盛は姿を表さず――代わりに、少し遠くなったような声が聞こえた。
「お前はもう必要ない。……精々神子殿にでも浄化して貰うと良い」
そう言った後に見えた知盛の顔は、うっすらと笑みさえ浮かべていた。
だがそれが見えたのは一瞬のこと。ふわりと知盛の体が揺れたかと思うと、体は其のまま崖の下に落ちて行った。
慌てて断崖により下を覗いてみたが、暗い色の木々が生い茂るばかりで其の姿を確認することは、叶わない。
……敦盛さんを単なる手駒のように扱っていたのだったら、あのような台詞は決して出ないだろう。
知盛のことだ、本当に不要だったのなら叩き斬っていたかもしれない。
けれど、知盛はそうしなかった。自分を庇うことを止めさせ、そして怨霊である敦盛さんが本当の意味で救われるであろう道を口にした。
……私が敦盛さんを浄化せず、何とか庇おうとするだろうこともヒノエくんが助力してくれるであろうことも恐らく、予想して。
ああ、なんて、あなたは……。
……あなたは本当に、なんて不器用なひと。
これで終わりなのだろうか? かつて無かった凄惨な戦も、あの長かった苦難の日々も、……知盛を追い求めた日々も。
これで、終わっていいのだろうか?
私は思わず周囲を観た。
見知らぬ敵、見知った人、全員揃ってはいないけれど、大切な仲間達――。
その中で一際優しい目で私を見つめてくれている人がいた。
私に再び時空を跳躍する力を与えてくれ、私が唯一罪を打ち明けた……先生。
一度、視線が絡む。そうすると先生は緩く頷いてくれた。まるで私の背中を後押しするように。
……嗚呼、私の心は既に決まっていたんだ。
私はもう一度皆を見て、ゆっくりと笑い、剣を収めた。
あれほど私を蝕んでいた腹の痛みも、今は不思議な程感じない。
軽く息を吸い込み、誰もの耳に届くように、私はたった一言の言葉を紡いだ。
「……行ってきます」
そして私は思い切り大地を蹴り飛ばし、暗緑に飲まれるように世界に沈んで行った――。
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