書庫の窓から見える空には、朗々と月が輝いている。

 其の光だけでは書を読むのには些か心許なかったが、他の照明は灯さずにわたしは書を開いていた。

 端から読む気など無かったかもしれぬ。

 視線は書の頁に落とされているというのに、まるで目が動いてはくれなかった。

 頭の中ではただ一つのことが巡っているだけ。

 ――陽太様が所帯を持たれるということだけ、が。

 気付かぬのが幸せだという事もある。

 その事をまざまざと感じずにはいられない。

 気付くのならば何故もっと早くに、ではなかったのか。

 何故、今更気付いてしまうのか。

 嗚呼。わたしは何時から……。

 ――何時から、陽太様をお慕いしてしまっていたのだろうか……。

「さりとて最早如何にもならぬ事」

 陽太殿の祝言は明日。

 今のご時世だ、大々的なことはせず極々身内だけで済ますと言う。

 そう。わたしの見ぬ間に、陽太様は人の夫となってしまうのだ。

「……愚かだこと」

 言って、思わず苦く笑う。

 以前にも同じ台詞を言った気がした。

 あれは此方の世界に来る前の事だったか――遠い過去の事のように感じてしまう。

 あの時自分には星の一族としての力以外は何も無いと知った。

 だが、今では其れに此の仄苦い想いが加わっている。

 よもや故郷を遠く離れた此の地で、一生涯抱き続けるような恋をするとは努々思わぬことだった。

「……菫」

 まるで月の光の柔らかさでわたしの名を呼ぶ声があった。

 其の声を聞くと安心する。

「月也殿。どうなさった?」

 何時の頃からかわたしは、月也殿に頼りきりになっている。

 ……此れは、わたしが弱いからなのだろうか?

 書庫と廊下を繋ぐ扉から、月也殿はわたしの方へと歩み寄る。

 歩を進める度にゆっくりと足元から其の身体が月明かりに照らされた姿は、儚げと表現するに相応しかった。

 殿方に対して言うべき言葉ではないが、そう思えて仕方なかったのだ。

「其れはこっちの台詞だよ。菫、もう大分遅い。そろそろ寝なさい」

 優しく諭すような言葉はまるで兄のようで、無条件に頷いてしまいそうになる。

 けれども今宵は。

 ……今宵だけは、暗闇の中で目を閉じることが恐ろしかった。

「……眠れなくてな。……見逃してはくれぬか?」

 告げると、ふ、と陽太殿が俄かに目元を緩め、優しい笑みを作る。

「明日陽太が妻を娶るからかい?」

「え?」

 ドクン、と。

 心の臓が跳ねるのを感じ、胸元へ手を遣る。

 服越しにも激しく動いているのが解るのだ、月也殿に聞こえてはいないかと気が気でない。

 聞こえる筈はない――そう思うのに、不安がなくならぬ。

 此のあさましい想いを、知られとうないと思って居る。

「菫は随分陽太と仲良くなったようだから……兄を取られてしまうみたいで厭なのでは、と思ってね」

 ……月也殿がそう言った時、わたしは思わず安堵の息を吐きかけた。

 気付かれていたわけではない、ただ単純に口にしただけのことなのだ。

「……そう、なのかもしれない」

 肯定の言葉を口にすると、月也殿はやっぱり。と笑ってみせる。

「でも眠らないのは良く無い。おいで、飲み物に少しアルコールを落としてあげよう。……きっとぐっすり眠れるよ」

 月也殿の言葉に、わたしはひとつ頷く事で其の提案を受け入れてみせた。

 ――一杯の液体の中に少しだけ落とされた筈のアルコールは、酷く苦いもののように感じた。


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