「一月、か」
此の地で暮らすようになり、一ヶ月経った。
初めこそ戸惑いはしたものの、見聞きするもの全てが新鮮で、心地良く胸に響く。
今が戦時中であることを除けば本当に理想的な場所で、まるで自分の本当の住処は此処であったかのようにすら感じていた。
けれど。
「故郷はあの地。懐かしきもあの地。生まれ、育ち、学んだ……わたしの故郷」
たん、と足を躍らせる。其れと同じに髪がさらりと揺れ、落ちる。
嫌ってなどはいなかった。愛しい地、恋しい地。思い馳せても帰れぬ地。
「空は空、風は風、人は人、大地は大地、わたしはわたし。それら全ては変わらぬのに、ただただ違う、場所と時空」
あちらの世界に比べると簡易なように感じる服の袖、引き攣らせるように天へと手を伸ばし、白い雲が流れる空を見上げる。
月也殿が身体が余り丈夫で無い事はこの一ヶ月で良く解った。ふとした折に熱を出し、苦しそうにしている。
そんな姿を見るのが心苦しく、看病を申し入れるのだけれども一度も聞き入れられた事はない。
逆に「移ってはいけないから」とやんわりと部屋を追い出されてしまう。其れが月也殿の優しさであると解ってはいるけれど、心配には変わりなかった。
「何をして良いのか解らぬものよ……」
一人、時間を与えられてしまえば如何してもあちらの世界のことを思い出し、考えてしまう。
我が一族の者は元気でいるのだろうか。あの世界は混沌に陥っていないだろうか。
……一族の力を持つ者は、星の一族にはわたしだけであった。
若しも京に危機が訪れた時、誰が神子様の御世話をするのだろう。
もう星の一族の力を持った者は生まれないかもしれない。
「……? あれは……」
庭の隅の方に、離れのような小さな建物があった。
人が住んでおらぬのか、外装からしてみても廃墟と呼ぶに相応しい。
此処まで手が回らなかったのかと、些か気に掛かった。
行ったとして、何かがあるわけではないと分かっていた。
けれども、別の世界のことを考えるのならば、……別の世界のことを祈るのならば。
此処ではない、あそこで祈りを捧げたい。
わたしは星の一族。
……星の一族の、姫。
キィ、と軋む扉を押し開け、一歩足を踏み入れるとふわりと埃が舞う。
けほ、と咳き込みつつも、奥の方へと足を進めた。
薄ら積もった埃によって、白い床に足跡が残る。
ゆっくりと目を伏せると小さく小さく心で祈る。
如何かあの世界が無事であるように。如何か、神子様が現れなくても良いような世界であり続けるように。
――如何か、この異郷に飛ばされたこの身でも、少しでも神子様のお役に立てますように……。
「――誰だ。此処で何をしている」
ギシ、と扉が開いたかと思うと、硬質な男の声が聞こえて来た。
その声にびくりと身を竦ませ、振り返る。
其処には、細身ながら引き締まった感じの、程よく日に焼けた男が立っていた。
その姿を視界に入れた瞬間、感じた。
わたしの中の星の一族の血が騒いだ。
密やかに懐に潜ませていた龍の宝玉が、反応を示した。
眩いばかりの陽の気を持った者。
……きっと、遠からず、この人物の血縁から龍神の神子様が出現する。
――身震いをしてしまう程強い、陽の気の持ち主。
わたしはこのおとこがこわい。
「……あっ……」
声を出そうとしても、か細く震えてしまう。
余りに圧倒的な力に眼を背けたくなる。
何もできないでいるわたしに緩やかに男は歩み寄って来て、少し考えるような素振りをした後、嗚呼そうかと頷いてみせた。
「月也が言っていた。お前が菫か。見知らぬ者が入ったのを見て泥棒かと思い追いかけたのだが……月也の客人ならば此処に居ても可笑しくは無い。……女が好んで訪れる場所ではないだろうがな」
知って居る名前が飛び出し、知り合いなのかと思わず眼を見開く。其れを悟ったのか、男は短い前髪を掻き上げるようにして口を開いた。
「俺は春日陽太。月也の友人だ。所用で暫し此の地を離れていたから丁度お前とお前と見える事はなかったが――。そんなに警戒することはないだろう」
ようた。
名前の通りの人物であると思った。強すぎる光を放ち、正視することが叶わない。
強すぎる光は眼を焼き、全ての闇を払おうとする。
いきぐるしい。
月也殿が名の通り、月のように柔らかな光を放ち、穏かな夜を与えてくれるのならば、この男は太陽そのものだ。
全てを焼き尽くすようでいながら、畏怖ではなく、崇敬の対象となるもの。
わたしも同様だ。
恐怖を感じると同時に、憧れずには居られない……。
「驚かせてしまってすまなかったな。俺は此れで失礼する」
「あ! お待ちください!」
漸く見つけた、神子様の縁者。
神子様はまだこの世に生じていないが、此の方には確実に繋がっている。
そんな想いがあり、咄嗟に此の方を呼び止めてしまっていた。
怯えた素振りしか見せていなかったわたしが呼び止めた事に、驚きを隠せぬ様子でいる。
高鳴る鼓動を抑えながら、わたしは意を決して言葉を紡いだ。
「少しで、少しで良いのです。陽太、様……少しだけ、お話を、して下さいません、か……」
心臓の音が陽太様に聞こえはしないかと、更にどきどきして。
面食らったような彼の人の顔を見詰める。
けれど、それも一瞬。
其れ迄無に近かった表情は、すぐさま崩れ去り陽太様は破顔なされた。
矢張り其れは太陽のように輝いていて、わたしは思わず目を細めてしまう。
「月也が臥せっている暇なのか。大した話は出来ぬが、良かろう。俺で良ければ付き合おう」
――廃墟の祈り。
わたしの祈りは天に届いたのだろうか。
神子様に関れるかもしれぬ位置に居る。若しかすると、神子様と見えることが出来るかもしれぬ。
一筋の光、其れを与えてくれた太陽の名を持つ、太陽の如き殿方に、わたしは感謝と敬意の意を込め深々と頭を下げた……。
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