月也殿の宅は、それ迄道筋で見たものより大きかった。

 しかし私が住んでいた館よりは幾分も小さかったと、そう感じたものだ。

 ――そうして、世界が違うのだと、先ず思わされた……。


「……まぁ、月也さん。それでこちらのお嬢さんを連れてこられたのね?」

 おっとりとした、月也と面差しが良く似た女性が頬に手をあててほぅ、とため息をついた。

 見つめられる視線に居たたまれなくなり、月也殿からお借りした羽織の裾をぎゅっと握り込む。

「はい、お母さん。記憶がないままでは、放り出されて一人で生きて行けるわけがないでしょう? 奉公人としてでも保護できないでしょうか」

 澱みの無い口調で言われてしまえばまるでそれも真実のように耳に響く。

 柔和な見かけとは裏腹にこの男は強かであるようだと隣の男を横目で見やった。

「あらまあ、こんな可愛らしい子を働かせるおつもりでしたの、月也さん。私は家族として迎え入れたいわ? こんな娘が欲しかったんだもの」

 両の手を胸の上で軽く重ね合わせるようにして悠然と微笑む姿に、わたしは違和感を隠しきれぬ。

 ……戦時中と、月也殿は言っていた。

 だのにこの女性はそんな状況下をまるで把握していないように穏かな様子を崩さない。

「お母さんが女の子を生まなかったのでしょう。お父さんは何時帰って来られますか?」

「明日の夜には戻られると思うけれど……」

 この上更に父親と対峙するのかと思うと身が強張った。一家の主たる人物は矢張り自分を見る目は厳しいのではないか、と恐ろしくなる。

 疚しい事は何も無いが、此の世界に在って良い存在ではないのかもしれない。

 不安な貌などしていないつもりであったのだが、何時の間にか月也殿の母君がそっとわたしの頬に触れていた。

「そんなに心配そうな顔をしなくても大丈夫よ。記憶が無いのは心細いかもしれないけれど……私の事、お母さん、って思ってくれて良いんだから。お父さんにも私から話しておきましょうね。きっと貴女のことを喜んでくださるわ?」

 ね? と安心させるように微笑む姿に、不意に込み上げてくる熱いものがある。

 こんな風に優しく、女の人に微笑まれたのは初めてで、……こんな気持ちも初めてで、名になのかわからない。

「あらあら、泣かなくても良いのよ? ……そうよねえ、恐かったわよねえ」

 柔らかく抱きしめられて気付く。

 自分が泣いてしまっていることに。

 抱きしめてくれる人の腕は温かく、良い匂いがした。――母親とは、こういうものなのだろうか?

 ぎゅ、とその人の服を掴み、涙を止めようと堪えたが、如何にも止まらなかった。

「やれやれ、私よりお母さんの方が随分と懐かれてしまったみたいですね」

 冗談めかした風に月也殿は言ったが、その口調には安堵が混じっていた――。


「……月也殿。そなたの家族は可笑しいぞ」

 此の世界の常識、というものを毎日のように月也殿に習うようになってから数日が経った。

 其れは有川の家に世話になるようになったのと同じ日数が過ぎた事となる。

 今日も今日とて月也殿の部屋で、本を借りて読んでいたが我慢できずにぽろりと言ってしまった。

「可笑しい? 菫さん、其れは如何いう意味かな?」

 正面きって可笑しいと言われれば誰でも困惑するものだろう。幾度かの瞬きの後、月也殿は緩く首を傾げてみせた。

「変と言わず何と言われるか。……そなたの父君も、何の疑いも無くわたしを受け入れた。それ所かそなたの御両親は毎日のようにわたしに贈り物をしてくるぞ。服やら、小物やら……戦争中ではなかったのか!」

 ばしばしと机を叩くと、月也殿が苦笑をしているのが見えた。

 別にわたしは悪い事はしておらぬ。……多分。

「食べ物は手に入りにくくなっているけれど、食べれないものはそうでもないんだ。まあ、相手をするのは面倒かもしれないけれど、年寄りの楽しみだ、付き合ってくれると助かるのだけれど」

 事もなげに言う姿は、心底そう思っているようですらある。

 両親が自分ではないものに構っていて気にならぬのか、と一度聞いた事があったが、「君はまだ子どもだね」と笑われたものだ。

 ――月也殿の両親は、本当にわたしに良くしてくれている。

「良い方々過ぎて、胸が苦しい……」

 本当は、記憶喪失でもなんでもない、嘘なのだから。彼の人達の心遣いが申し訳無く、居た堪れない。

 わたしにだって、罪悪感というものは、ある。

「父と母には話しては安全だと思う。其れでも、君の事を思えば話を広めるべきではないんだ。何処から話が漏れるか解らないからね……今、日本は自分達が一番優れていると信じている。漸く国民自らが“国”というものを意識するようになったからだ。……其処で君は、異端分子にしか過ぎなくて……最悪、嬲り殺される可能性がある」

 言って居る事の殆どが解らなかったが、しかし、それがわたしの身の為にならぬことは月也殿の口振りから伝わって来る。

「……菫は、今まで此れほど長く嘘を吐いた事はないぞ」

 ぽつり、と呟くと、月也殿が「ごめんね」と柔らかく言う。

 恐らくこれはわたし個人の問題だけではなく、バレてしまえば月也殿にも害が及ぶことなのだろう。其れくらい、容易に想像がつく。

 ……優しい、人間だ。戦争中で普通ならば心は荒むものだろうに、出会ったばかりの者の面倒を見たり、匿ったりしてくれる。

 月也殿といると、胸に温かい気持ちが沸き起こる。

 月也殿の傍は、心地良い。ずっと傍に居たいような、そんな気持ちにさせられる。

「そういえば菫さん、勉強が終わったら部屋に来て欲しいと母から伝言を頼まれていたんでした。何でも、着物の丈を合わせたとか」

 含み笑いをしながら言ってくる月也殿に、わたしは思わず苦い顔になる。

 服も十分用意して貰ったというのに、本当に、此処の家の者達は皆お節介で、優しいと思った。


「ほら、菫ちゃん、ぴったりになったわ? お父さんも見たらきっとまたでれでれになってしまうわね」

 ほくほくと嬉しそうな顔をしてみせる女性に、嬉しい反面、胸につっかえるものがある。

 嘘を吐いているという事実は、思って居るよりも随分胸に重く圧し掛かっているらしい。

「菫ちゃん?」

「あっ。も、申し訳ありませぬ。少し、ぼんやりとしてしまっていたようで……」

 無意識のうちに暗い貌をしてしまっていたのか、母君が心配そうにわたしの顔を覗きこんでいた。

 咄嗟の誤魔化しの台詞を紡いでも、そのまま流してくれるような雰囲気ではなくなっていた。

「……何か悩み事があるのなら、何でも言ってくれて良いのよ? 私達は貴女の力になりたいんだから」

 心の底から思っているような口振りに、嘘は無いのだと思う。

 けれど此れは、話せるわけもない。申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、首を横に振る前に、言葉が続けられた。

「でもね。話したくないことや、話せない事は話さなくても良いのよ。お父さんも心配していたわ。菫ちゃんは、苦しそうな顔をしている時がある、って……」

 其の言葉に、酷く驚かされる。

 なんて人達なのだろう……。

 優しくて、温かくて、……あちらの世界で本当の血縁に囲まれていても味わえなかった“家族”というもの。

「ありがとう……」

 許された嘘は、とても甘いものにと変わった。

 こんな温かい場所に連れて来てくれた月也殿に、わたしは此の上ない程の感謝をした。
 この人達に……月也殿に……出会えて、良かった――。


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