「痛……」
身体の節々が痛む。
気を失っていたのだろう、重い瞼を押し上げ、目を開いた。
見上げた先は、重苦しい曇り空。
しかし其れは夜の様相ではない。
痛む腕を擦り乍、仰向けに倒れていたらしい身体を緩慢に起こした。
「……此処、は……?」
天候の所為で薄暗いとは言え、はっきりと今自分が居る場所が解る。
森の中だ。
否、そう大したものでないことは知れる。
しかし――。
「わたしは、屋敷の庭に居た筈、だわ……」
時間については気を失っていたのならば納得が行く。
しかし此れは、絶対に在り得ない事なのだ。
震える指先を唇に添え、怯えるように周囲を見遣った。
こんな場所、知る筈も無い。
夢を見ているのだろうと思い込もうとしても、感覚がやけに冴え渡っており此れが現世であることを認めざるを得ない。
「だ、誰か……っ」
助けて、と。
乞いかけて止まった。
見知らぬ土地で、斯様な場所で…。
真っ当な人間が来るような所ではない。
下手をしたら獣が来るやもしれぬ。
未知の場所というものは不安を掻き立てるには十分で、カタカタと身体を震わせながらその場に身を縮こまらせた。
気高き姫と称えられた自分と今の自分を比較しながら情けない気分になる。
しかし其れも構ってはいられなかった。
泣き出さないようにするので、精一杯だった。
幾ら気丈に振舞えど、幾ら怖いものなど無いように振舞えど、未だ十五しかならぬ童なのだ。
此のままこうしているわけにはいかぬと解っているのに、動く気になどなれなかった。
その時、がさり、と茂みが動く音がする。
過敏になっていた神経が反応するように、恐怖に華の顔を歪めながら弾かれたように面を上げた。
「――誰か?」
歳若い、其れで居て落ち着いた男性の声音が耳に心地良く響く。
其れが恐ろしい人ではないと判断すると、僅かに残った虚栄心が背筋をピンと伸ばさせた。
「此処に」
懸命に声音が震えるのを堪え、凛として言い放つ。
茂みより顔を覗かせた男は、己より幾つか年が上程度で、そう変わらない年代であることが知れた。
只、違和感を感じたのは彼の装い。
己が見てきた殿方の装いよりも、些か動き易さを重視したものに見て取れる。
大きくは違わないが、このような違いを見たのは初めてだった。
「……驚いた。君のようなお嬢さんが、如何してこんな所に?」
緩々と首を傾げて問いかけてくる男の顔は、酷く整っており、其れで居て冷酷さなどは一切感じさせぬ柔和な感じがした。
髪はそう短くはなかったが、結う事は出来ぬと思われる。
毛の一本一本が細い為なのか淡く見える色合いが不思議と心落ち着かせた。
不意に、自分の格好を思い出し頬が熱くなる。
突然のことだったとは言え、己は下着同然の格好をしているのだ。
其れでも今更意識してみせたりするのも気恥ずかしく、唇を噛み締めるようにして動揺を堪えた。
「其れは此方の台詞。斯様な場所をうろついている輩など疑われても仕方が無いのでは?」
誤魔化そうとする余り、つい威高な態度を取ってしまう。
瞬時に後悔するのだが、僅かに残った自尊心が己の態度を訂正させる事を赦さぬのだ。
此れでは見棄てられても文句は言えぬ――。
しかし、予想を裏切るように、男は怒りもせずに緩やかに首を傾げて見せただけ。
淡い微笑みを顔に浮かべると、緩く自然を仰ぎ見るような動作をしたのだ。
「私は物書きの真似事をしていただけの、単なるひ弱な男。怖がる事は無いよ。…君、見た所随分と育ちが良さそうだけれど…何があったのか、教えて貰えるかな」
温和な喋りをし、何処か洗練されたような仕草をしてみせる男も育ちが良いのではないかという事が頭を過ぎる。
信頼して良いのか如何か。
そんな戸惑いが胸に浮かばなかったわけではないが、何故か頼っても良いのだと、不思議とそんな確信があった。
其れは星の一族であるが故、なのかも知れぬ。
――そうだ、星の一族なのだ。
なれば、自分の直感を信じられずに如何するというのだ。
……わたしは、誇り高き星の一族の姫。
己を信じられずに何が出来ると言うのか。
「信じて貰えるとは思っては居らぬ。だが、わたしの話に耳を傾けてくれるだろうか?」
――出逢って数分、そんな相手に対峙しているのだとは思えぬ程に、心は落ち着いていた…。
「……成る程」
理由は解らぬが、恐らく己は次元を超えて世界を超えてしまったのだろうと言う事を掻い摘んで伝えた所、目の前の青年は得心したように頷いてみせる。
あっさりとし過ぎている受容に、此方が驚いてしまう程だ。
「信じるのか」
思わず詰問するような口調で問いかけると、青年は緩く肩を竦めて見せた。
そんな気障な仕草も不思議と厭味に映らない。
「疑って欲しい? ……ただ、君が嘘を吐いているようには見えなかっただけだよ」
無用心に人を信頼し過ぎると、不安になった。
だが、逆に疑われても己が困るだけなのだと悟り、きゅ、と唇を引き結ぶ。
そんなわたしの姿を見て、懸命だと言わんばかりに微笑んだ男に少しだけ、悔しさが込み上げた。
「さて、其れでは君はこの世界では行く場所が無いと言う事だろう?」
「言われずとも解って居る」
自慢ではないが、今まで蝶よ花よと大事にされて育って来た身、野営など出来る筈も無し。
厚かましい話だが、何とかこの男が役所か何かに取り成してくれぬだろうかと、密やかに期待している。
「では、我が家においで。君一人くらいならば私が何とかするから」
……何とか、という思いはあった。
だが、今この男は何と言ったか。
姫である自分を斯様に気安く自分の館に向かえ入れようとするとは不埒にも程がある。
そんなわたしの動揺をまるで気に留める風で無く、男は手を招くようにしてわたしを立つように促した。
「如何せ今は戦時中。身元が多少解らぬとて、誰も疑う者は居ない。……嗚呼、けれど此方の世界の事は殆ど解らぬのか……ならば、記憶喪失という事にしようか? まるで小説の中みたいだ」
立場上、奉公人のような形で入って貰うようになるけれど、と多少悪戯めいて言葉を紡ぐ男に、疚しい事など無いように見えた。
しかし、穏かな外見をしている癖に中々に強かなことを考える男である。
「……ふん。ならば帰る手段が解るまで、そなたの屋敷に居てやらぬ事も無い。……何をしてる、手を貸さぬか」
この男のペースに巻き込まれぬように気を張りながら、つい、と手を差し述べた。
其れを見た男は緩やかに笑い、恭しい動作でわたしの手を引いてくれる。
「御姫様の御名前は? ――私は、つきや。有川月也」
つきや。
そう、心の中で小さく呟いてみせた。
月のような印象を抱かせる貌を持った男だと思った。
穏かで、其れで居て共に居ると退屈せぬような男だと思った。
――星は、月に保護されるか。
そんな自分を自嘲気味に笑ってみせようとしたが、繋がった掌が温かすぎてそう、出来なかった。
やがてわたしは、暫しの間を置いて思い出したように唇を開く――。
「わたしの名は、菫、……だ」
昭和17(1942)年。
大東亜戦争が宣言未だ春の気配残る某月某日、一人の少女が鎌倉にて保護された。
其れ迄の少女の生い立ちは一切不明。
ただ、自らの事を菫と呼んだ。
親を亡くし、戸籍が曖昧となった孤児同然の娘など数多存在している。
この娘もその類であろうと、人々はそう判断したのだった。
後に、戦火を逃れ疎開する途中記憶を失ったと処理されることとなる。
其れを疑う者は、存在しなかった――。
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【菫TOP】
【遙かTOP】
こっそりと補足説明。
菫姫が飛んできたのは1942年です。
1941年(昭和16年)12月10日に日本で大東亜戦争と呼称を定められました。
遙か3(無印)が発売されたのは2004年だった筈ですので、望美が10歳の頃70歳でこの世を去ったとしております。
年齢等についてはゲーム内にて語られていなかったような気がしたので捏造です。
若し公式設定があったのならば申し訳ないです。
有川さんに関しては適当な設定で悪いなあと思うのですが取り合えずお金持ちなのだと思います。
近い内春日さんも出現します。