幼い頃は今ほど母に対して此処まで畏怖を抱いてはいなかったように思う。

 既にこの世を去った姉を投影されていると言うのも、幼かった俺にとっては到底理解し得るものではなかったから。

 ただ、如何して“女の子”扱いされるのかは、疑問ではあったのだけれど……。

「将臣」

 玄関の戸が開き、姿が見えた瞬間に其の男の名を呼んだ。

 疲れた様相で帰ってきた男は、掛かった声に些か驚いたように顔を上げるが、俺の姿を見た瞬間破顔してみせる。

「……何だお前、待ってたのか?」

 壁に寄り掛かり腕組みをしたままの状態を見て、将臣は軽く笑うようにして言う。

 ――其れまでの疲れた素振りなど、ひとかけらも垣間見せぬように。

 そんな風に振舞ってみせても疲れさせたのは俺の母親であることは明白であると言うのに、だ。

 あちらの世界で数年過ごした将臣は、誤魔化すのが上手くなった。平気なフリが上手くなった。

 ……幼馴染でなければきっと疲れた様相は気のせいだったのかと思ってしまう程に、明るい笑みだった。

「……悪い」

 ポツン、と小さく呟くと、将臣は仕方なさそうな顔をして笑ってみせる。

 靴を脱ぎ、家へと上がると通り抜けざまにポン、と俺の頭を軽く叩いた。

「何言ってンだ。お前何も悪ィ事してねぇだろ」

 頼ってくれて構わないんだと言わんばかりの将臣の言葉に縋ってしまいそうになる。

 だが、此れ以上誰かの負担にはなりたくない。

「母さん、何か言ってたか」

 恐らく将臣は俺がこんな質問をするなどとは思っていなかったのだろう。

 母の話を、……その存在を、徹底して避けたがっていた俺ったから。

 些か驚いたように目を見開いているのが解った。

「――何時までも此のままじゃ、駄目だから。何とかしないと」

 いい訳じみた自分の言葉に情けなさが増すが、口にした台詞は本音だった。

 何時までも、母に縛られていてはいけない。

 目の前にすると其の決意はあっけなく崩れてしまうと先ほど実感したばかりだ。

 でも、だからこそ今此処で将臣と母が何を話したのかを聞いておかなくちゃならないと思った。

 じ、と真剣な目で将臣を見ると、俺の気持ちを察してくれたのか緩く長い溜息を吐いた後、将臣が口を開いた。

「……お前と一緒に居た女は誰だ。何をやっているのか知らないが早くお前を家に帰してくれ、って」

 思わず苦笑めいた顔になり乍、将臣はそう言った。

 口に出しては言わなかったが、その時の母の形相は鬼のようなものだったのだろう。

「朔は俺らのクラスメート。……で、ノゾミは、自分の意思でウチに留まってる、って言っといた」

 そんな返答じゃ恐らく母は認めずにしつこく食い下がって来ただろう。

 其れを何とか宥め帰ってきた将臣に申し訳ない気持ちが益々こみ上げてくる。

「ノゾミ、……如何やって“何とか”するつもりだ?」

 気遣わしげな其の口調に、将臣が真剣に俺と母のことを憂いてくれていることが知れる。

 如何やって、なんて。

 そんな手法はまだ何一つ思い浮かんでいないけれど。

 全てを捻じ曲げている要因は只一つ。

 其れを解決出来たならば、後は用意に解けて行くような気がするのだ。

「受け入れて貰うんだ。春日望美はもう死んでいないことを。……此処に居るのは、“春日望美”の……誰の代用品でも何でもない、一人の人間なんだ、ってことを」




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