「本当に着いて行かなくて良いのか」

 話をすると決断したのは昨日のこと。

 一晩時間を置いて、其れでも尚決意は変わらぬのかと将臣は俺に問い掛けて来る。

 頼りになる幼馴染。彼と弟が似てる部分は、割と心配性ということだと思う。

「大丈夫。それにお前今日出掛けるって云ってただろ?」

 既に有川邸に人の気配は少なく、玄関先で会話してる二人の声を聞かれる心配もない。

「嗚呼、でもそれは今日じゃなくても良い。今日の用事は大したもんじゃねぇんだよ、景時が見たいモンあるっつーんで案内するだけの……」

 何処かこの世界の機具に興味を持っているらしい人物の姿が思い浮かび、思わず笑いそうになる。

 多分機械とかそんな関連なのだろう。

 尚も言葉を重ねて来そうな将臣を遮るよう、手を横に振り口を開く。

「なら尚更だ。下手にキャンセルして何かあったのか、って思われたら困るだろ、俺が」

 態とらしいまでに言い切ると、将臣は何か言いかけるものの、結局其れは音とならずに苦笑へと変わって行った。

「……言い出したら聞かねぇのは変わらないな。解った、約束を反故にするようなことはしない。だけど」

 其処で一旦言葉を切ると、ふ、と表情を緩めて、将臣は腕を持ち上げる。

 コツン、と額を小突かれる感覚に目を瞬かせ、目の前の相手を凝視すると笑う彼の顔が其処にはあった。

「何かあったら直ぐ携帯に連絡入れろよ。そしたら俺は今日の約束よりもお前を優先する」

 約束の邪魔をしてしまうのではないか、そんな危惧は無用であると暗に告げるように将臣は断言した。

 掛けられる言葉に安心感が胸に広がる。

 自分は何と恵まれた親友を持てた事だろう。とん、と手の甲で将臣の胸を小突いてやる。

「じゃァお茶菓子でも買って来て、とかいう連絡するかもしれないよ」

 軽口めいた言葉を吐き、2、3の応酬の後俺たちはその侭別れた。

 



 家の前に立つだけで、地面がぐらぐら揺れているような錯覚に捕らわれる。

 決意したのに、決意、した筈なのに如何しようもない不安定さが胸に棲みついている。

 呼吸が上手くできないような感覚に陥り、ぎゅ、と胸を押さえる。

 視線を落とすと胸を押さえた手が視界に入った。

 朔と繋いだ、手。

 今でもそのぬくもりを思い出せる気がし、すうっと心が落ち着いてくる。

「……相当参ってる」

 彼女のことを支えたいと思うのに、今この瞬間ですら支えて貰っているだなんて。

 ふ、と息を吐き出すと、ポケットから家の鍵を取り出し、差し込んだ。

 回すとカチ、と音がし、鍵が開いた事が知れる。

 慣れている筈の扉を開けるというのに、何故だか酷く重く感じる。――いや、この感覚は、昔からだった。

 靴を脱いで上がりこむ。母は家にいるようで、玄関には母の靴が綺麗に揃えられ、置かれていた。

 半分開いた侭のリビングの扉。

 其の隙間からダイニングに立ち、包丁を持った侭ぼんやりとまな板の上を眺めている母の姿が見えた。

「……、母さん」

 リビングへ入り、そっと呼びかけると其れまでの茫洋とした様子が嘘のように華やいだ微笑を浮かべ、包丁を手にした侭此方へと駆け寄ってくる。

「望美! 望美!! 嗚呼ッ、良かった戻って来てくれたのね、お母さん何度迎えに行こうと思っていたか……! 勝手に髪の毛を切った事も、勝手に外泊した事ももう怒らないわ、あの女のことも聞かない。だからもう何処へも行かないで頂戴……」

 懇願にも似た響きで以て母は訴えかけて来る。

 包丁を手にした侭、俺を抱きしめるように腕を回してくる。

 包丁の刃は、料理をしていたとは思えない程綺麗で、――もしかすると単に料理をしていなかったのかもしれない。

「母さん……」

「いっそもう学校も止めても良いのよ、行っていないんでしょう? そうしたらお母さんもお仕事止めるわ。望美ちゃんが勝手に外に出て危ない目に遭わないよう、ずっとずっと傍に――」

 掠れた声で呼びかける。まだ何か云っている母の言葉も、もう耳に入れようとは思わない。

「母さん。俺は、」

「外は怖いもので一杯よ。嗚呼、そうだわ何でもっと早く思いつかなかったのかしら、お家に居れば何も怖い事なんて……」

「母さん!!」

 耐え切れず、叫び声で母の言葉を制止する。

 途端きょとりとした表情で見上げてくる母のあどけない顔に、泣きたくなった。

 抱きつかれている事で触れ合う体温も、不快感しか催さない、現状。

「如何したの、望美ちゃん?」

「俺は、」

 ひゅ、と呼吸する度に咽喉が引き攣りそうになる。

 でも、もう止めることなんて、出来る筈も無い。

「俺は、“望美”ではない。――貴方の娘じゃ、無い」

 面と向かい断言するのも、母の夢を目の前で否定するような言葉を紡ぐのも、初めてのこと。

 見る見る内に母の顔は蒼白に変わり、わなわなと唇が震えだすのが見える。

 だらんと母の腕がだらしなく垂れ、手の力が緩んだのか包丁がフローリングの床へと落ちた。

 突き刺さる事はない、ただ音を立てて転がる音。落ちる瞬間身構えたものの、其れは母の方にも俺の方にも向かって来ることはなかった。

「な、に……云っているの? 疲れているの、ねぇ、そうなんでしょ?」

「俺は男だ。“春日望美”は、俺が生まれる前に既に死んだ、俺の姉――俺は、母さん、貴方の息子です」

 信じられないくらい冷静な声が出た。

 口に出してしまえばこんなにも簡単なことだったのかと思ってしまう程。

 プツ、と生気を失った瞳がぼんやりと俺の顔を見上げてくる。

 口内で何か呟いているのか聞き取れない程の僅かな音が、母の口から漏れ出ている。

「母さん……」

 そうっと呼びかけた所で強い力で腕を掴まれる。

 何、と思う間も無く胸に何かがぶつかり、ぐらりと世界が傾く。後頭部に強い衝撃があった。

 チカチカと目の前に火花が飛ぶような感覚。そこで漸く母に倒されたのだと気付くに至る。

 何とか起き上がろうとするが、身体の上に母が乗り掛かっていて身動きが、取れそうもなかった。

 今がどんな体勢であるのか思い当たるとぞくりと身体が震え嫌な汗がぶわ、と溢れ出す。

 嫌だ、いやだ、イヤダ、触らないで、オカアサン――。

「ねえ、……如何して? そんなに男の子が欲しかったの? だったら、そう云ってくれれば良かったの、私、いいわよ……」

 吐息が耳に掛かる。

 最早母は、望美も、ノゾミも……見ては居ない。

 度々訪れていた夜の恐怖。

 母は、俺に――

「ねえ、……あなた

 ――父を、重ねて。

男の子をつくりましょうか……

 汗ばんだ手が首に掛かる。

 怯えて泣いても、母は俺と身体を重ねようとする。

 ――いや、もう家に寄り付かなくなった、父親と、と言った方が、正しかった。

「……ッ! 止めろ!! 俺は父さんじゃない!! 父さんは逃げた、アンタの狂った姿に耐えられなくなって家に帰ってこなくなったじゃないか! 俺は父さんじゃない、俺は……ッ!」

 今まで母と重ねてきた行為は、自らの意思ではなかったとは云え酷い罪悪。

 倫理に反する事、神に対する冒涜。逆らえなかったからだなんて、言い訳にしか過ぎない。

 もうやめよう。やめさせよう。すこしでもせかいをいとしいとおもえるように。

「“望美”も! 姉さん、も。死んだんだ、俺は、……俺なんだ、よ」

 上に乗る母の体を押し返す。

 如何あっても、もう、母を受け入れる事はできはしない。しちゃいけない。

「あなた……? 望美……? ……嗚呼、どうして、そんなこと、ねえ」

 瞳一杯に涙を湛え、不安定な調子で問い掛けてくる。

 母は弱い人。そして脆い人。それだけの人。

 其れでも解ってくれたのかと安堵の息を吐きかけた、その時。

だれにそんなうそふきこまれたの?

 ぞわ、と総毛立つ。母の身体が自らの意思で離れて行くのを、呆然と見遣る。

 今、母は何と言った?

 信じられないものを観るように、母の顔を見詰める。

 母はもう俺の顔なんて見てはいなかった。

「嗚呼。そう、解ったわ。変だと思ったの、望美ちゃんが急にそんなこと言い出すなんて。いやねえ、望美ちゃんを私から奪い取ろうとする、嫌な奴。赦せないわ」

 ぶつぶつと呟き乍、母は落とした包丁を拾い其の刃をじ、と見詰め、呟いた。

 こわい、こわい……このひとは、こわい。

あの女ね

 ――其の言葉が、誰を指すかなんて嫌という程に想像がつく。

 かあさん。俺は信じていたのに、信じたかったのに。

 俺の母さんは貴方だけだから、何時か、怖くなくなる日が来るのだと、

 しんじて、いたのに。

 身の竦むような恐怖感が心を占めて、尻餅をついた状態の侭動けない。

 母はそんな俺に目もくれず、ゆるり、と踵を返すとリビングを出て行った。

 ――包丁を、その手に持った侭。

「母さん……!!」

 足が震える。凍り付いて身動きが取れない。

 母が、何処に向かったのかは直ぐに予想がついた。

 大丈夫大丈夫朔は大丈夫。

 だってあの家には誰かが居る、皆が朔を護ってくれる。

 何も心配要らないんだ、ただ母さんが押さえられるのを待っているだけで良い、其れで、

「……嗚呼、……。ああッ、クソッ!!」

 良い訳が、ない。

「動けよ、この、根性なし!!」

 がたがた震える足を叱責し、殴りつける。

 他人に頼っちゃ駄目なんだ、他人に任せちゃ駄目なんだ。

 自分でなくては駄目だから、この手で彼女を守ると、決めたんじゃないか。

「今、やらないと、駄目なんだ……」

 ぐ、と足に力を込めると其れまで動かなかったのが嘘のように何の抵抗もなく立ち上がることができた。

 殴りつけた部位が、ずきずきと痛む。

 だが今はそんなことを気にしている暇はない。

 歯を食いしばり、床を蹴り玄関へ向かい駆け始める。

 靴を引っ掛けるように履き、其のまま家を飛び出した。




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