これ程までの大人数で移動することは過去何度あるものか。

 学校行事以外ではとんと思い当たらずに、……思い返すことも億劫になって首を横にと振った。

 ――家はもう直ぐ。

 忘れていた、いや、忘れたかった現実が直ぐ目の前にあり知らず知らずのうちに歩みが遅くなる。

 その時、どんな会話の流れであったのだろうか、不意に譲が口を開いた。

「他の人は良いとしても、朔まで俺達の家で暮らすのは良くないんじゃないですか。だったらいっそ先輩の家に……」

「其れは駄目だ」

 ……恐らく、その言葉を紡いだ本人にしてみれば何気ない……いや、寧ろ善意からの提案だったのだろう。

 けれども其れは何とも言いようのない恐怖。何を考えるよりも先に否定の言葉が口を飛び出した。

「え? でも、先輩の家には母親が居ますし、男所帯よりは……」

「駄目だ」

 こんな風に頑なに拒絶されるとは思ってもいなかったのだろう、何故だか困惑した素振りで譲がささやかに主張を述べてくる。

 だが、其れを撥ね付けるようにきっぱりとした拒絶の言葉を放つ。

 そんなこと、させるわけにはいかないのだ。

「あー……。譲。お前は知らねぇと思うが、おばさん、コイツが友達とか泊めたりするの絶対許さねーんだよ。連れてきても追い出す、って明言してるらしいしな」

 まるでフォローを入れるかのような将臣の言葉に、理由も告げずにただ駄目だと繰り返していた自分に気がつき、恥ずかしくなる。

 ……将臣は何故、己の母が他者を泊めることを嫌がるのかを知らないながらも、こうしてフォローを入れてくれる。

 その事に感謝をしながら、兎も角自分の家は駄目であることを断っておいた。

 ――此の時、俺は自分の事に精一杯で……。

 朔がどんな顔をしていたのか、見ることはなかった。


 出来るだけ、音を立てぬように慎重に家の扉を開く。

 其れでも矢張りどうしても締める時にカチャリと音が鳴り、其れは母に知られてしまった。

「チッ……」

 苦々しい思いが自然と舌打ちとなって現れ、何とか母が姿を現す前に己への部屋へと駆け込む。

 間一髪の所で部屋に滑り込むと、程なくしてコンコン、と打ち据えるようにドアをノックする音が響いた。

「“望美”ちゃん? 帰って来たの? ただいまくらい言いなさいな。……まあ、良いわ。そろそろお夕飯の支度始めるから……」

「あッ! ゆ、夕飯、は。将臣……くん、たちと食べて来たから。いらないよ」

 茶吉尼天に立ち向かった時は、あんなにも勇気に満ち溢れていたというのに、猫撫で声で紡がれた台詞には身が縮こまる程に怯え、つっかえながら言葉を返している。

 そんな自分を何とか奮い立たせようと太腿に爪を立てかけるも……直ぐに、其の手には力が入らなくなってしまった。

「お夕飯がいらなくなった時はちゃんと連絡しなさいってあれ程言ってるでしょう」

「……ごめんなさい、母さん」

 余所余所しいほどの謝罪の言葉は母の耳にどう届いたのかは解らなかったが、仕方の無さそうに溜息を吐いた後、此れから気をつけるようにと言い残し部屋の前から遠去かって行った。

 其れに深い安堵の溜息を吐きながら、……夜への恐怖に怯え、膝を抱くように扉を背にして座り込んだ……。


 物心ついた頃から父は殆ど家に帰って来なかった。

 取り残された自分は、母という名の看守に見張られて、家と言う牢獄に閉じ込められているのだ。

 ……そして……。

 ほら、もう直ぐ看守が見回りにやってくる……。

 ガチャ、……コン、コン。

 ドアノブを捻る音。

 予め鍵をかけておいたから開かず、母はゆっくりとドアをノックし始めた。

「起きているんでしょう? 開けて、開けなさい。…………お母さんの言う事が聞けないの。開けなさい!!」

 ドンドンと次第にドアを叩く音が激しくなって行く。

 態度が豹変した事は、最早様子を窺わずとも解る。恐らく母は今、その整った顔を般若のように歪めて怒り狂って扉を叩いているのだ。

 ――この続きまでは、知っている。

 やがて不意に静かになったかと思うと、聞こえてくるのだ。

 カリカリ、カリカリ。と。

 何かを引っ掻くような、その音が。

 静かな夜には良く響くその音は、ドアを引っ掻いている音なのだろうか。

 カリカリカリカリカリカリ。

 次第に早くなっていく音は最早凶器。

 何時だって其の音に耐え切れなくなって、遂には扉を開けてしまうのだ。

 カリカリカリ、カリカリカリカリ。

 怖い。怖くて仕方がない。

 誰も助けてくれない。

 ベッドで身を縮め、布団を被り懸命に音を聞かないようにする。

 もう、今までの自分とは違うんだ。

 もうカリカリという音に怯えて母を受け入れなくとも良いのだ。

 嗚呼、そう思うのに。

 伸ばし続けてきた髪が身体や首や顔に纏わりついて、窒息しそうになる。

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。

 もう止めて下さいお母さん。

 大切な仲間が出来ました。護りたい人たちが出来ました。

 好きな人が出来ました。

 だから、もう此れ以上惨めな思いをさせないでください。

 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ。

 ……俺は、彼女の傍に誇らしい気持ちで立っていたいのです。

 あなたが本当に俺の母親だと言うのならば、どうか、どうか――。


 カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ――ガリ




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