すい、と手が動き、荼吉尼天が此方を真っ直ぐに指差した。

「その代わり、あの子の首を締めて頂戴? そうすれば黒龍の逆鱗は返してあげましょう。白龍の神子と、黒龍の逆鱗――神子はまた選ばれるけれど、龍は逆鱗がない限り永遠に私に囚われたまま生ずる事も出来ない……比べる迄も無いことでしょう?」

 コノ女ハ、一体ナニヲ言ッテイル?

 頭の中が真っ白になり、言葉すら発する事が出来なかった。自分と黒龍を秤にかけ、どちらかを選ばせようとしている。

 見ると、朔も何も言えなくなってしまったように蒼白な顔をして呆然と立ち尽くしていた。

「何を迷う必要があるのかしら? 私は別に此の侭逆鱗を返して差し上げても構いませんわ? けれど、此の侭返したとして、あなたが知っている“黒龍”はもう存在出来ないの。……嗚呼、其れは其処にいる白い龍が一番良く知っているかもしれないことね」

 其の言葉に、本当かと白龍を見やると、辛そうな表情をした白龍は、重苦しく頷いた。

「……何、を、言っている、の……?」

 呆然とした声音で白龍に問う朔は、震えていた。

「黒いのの逆鱗は、清盛の……怨霊の力によって穢されていた。龍に戻るには一度消滅し、再び生じるしかない。けれど、……そうすると、“今”の記憶は消える」

 白龍の言葉に、茶吉尼天はただ歪な笑みを浮かべ、緩やかに首を傾げてみせると言葉を続ける。

「けれどね、あなたの黒龍を助ける方法も、ひとつだけ残されているのよ?」

 落とした後にまた救い上げるように話題を持ってくる。

 其れは切り札のように、其れしか道は残されていなのだと囁きかけるように。

「黒龍を、助けることが出来る……?」

「朔! 聞いちゃ駄目だ!!」

 彼女の心が、荼吉尼天の甘い誘惑に傾いているのが解った。其れを引きとめようと景時が声を張り上げたけれど、最早彼女の目は荼吉尼天しか見据えていない。茶吉尼天がちらりと景時の方を見やり目を細めると、小さくうめく声が聞こえ、其れ以降彼の声は聞こえなくなる。

「そう。とっても簡単な方法……。龍神がいなくなってしまえば良いの。神として在る必要が無くなれば、仮令どんなに怨霊の負の瘴気が絡み付いていたとて構わないのですから。消滅する必要が無くなるの。そう、それこそあなたと同じ“ヒト”になる――」

 身体が、動かなかった。否、自分だけではない、朔以外の誰も全身に重石が乗っているように動くことがかなわなかった。恐らくこれは荼吉尼天の仕業によるものなのだろう。

 其れを他所に荼吉尼天は唇に手を添えて秘密の話をするように、ひとつずつ、丁寧に朔の心に希望の種を植え付ける。

 そして、黒龍が助かるかもしれないという喜びに心を惑わしたところで――再び、底へと突き落とすのだ。

「でもそうするには対である白龍が邪魔。白龍が消えてしまえば全て上手く行くのよ。もう龍神は生じ得なくなるのだから。……幸いにして、今の龍神に然したる力は無い――今ならば、白龍の神子が消えればそれだけで龍脈の力を断つことが出来る。……ねえ、賢く可愛らしいお嬢さん。この意味がわかって?」

 小刻みに朔の身体が震えているのが見える。

 けれども、今となっては声すらも出すことが出来ないのだ。

「……ノゾミを……、いいえ、白龍の神子を……此の手に掛けると言うこと」

「そう。お利口ね」

 両の手のひらを重ね合わせ、にっこりと茶吉尼天は微笑んだ。

 其れを契機にまるで何かに操られているような心もとない足取りで、朔が此方へと一歩、二歩と近づいてくる。

 ――終わりなのか。

 不思議と怖くは無かった。

 ただ、寂しさと哀しみの気持ちに飲まれるだけ。

 そっと身体が横たわり、仰向けになった身体の上に彼女の影が落ちる。

 華奢な白い指が喉に絡みついて来た時も、彼女に対する嫌悪感はまるでなかった。

 ……いや、不思議と少なからず安堵していたのかもしれない。

 徐々に視界がぼやけてきて、世界と彼女との境界線すらわからなくなる。

「……ごめんなさい、ノゾミ……。私、あなたを失いたくはないわ。……でも」

 ぽたり、と綺麗な雫が頬に落ち、彼女が泣いているのだと、悟った。

 その雫を感じ取った時、不意に言いようの無い感情がこみ上げる。

 ――嗚呼、本当に。何て今更なんだろう。

 将臣に、此れは恋じゃないと言ったけれど。

 自分自身にも何度だって、この気持ちは恋じゃないんだって言い聞かせていたけれど。

 彼女に求めていたのは、母親でも何でもなかった。

 彼女と、黒龍が寄り添っている姿を見ることがなく消えれる今に、安堵していた理由も、彼女が黒龍のことを語るときに痛む胸の理由も、漸く理解した。

 ――すきだったんだ。

 最初から、ずっと。

 傍にいたいと思っていたんだ。

 其れが願い。

 けれども、もうこの気持ちを彼女に伝える術も無くて、きみの手にかかって死ねるのなら、それもわるくないのかなとすら思う。

 せめて最期にもう一度、君の顔を見たかったけれど……視界を覆う闇はどんどん濃くなっていっている。

 なかないで。

 薄れ行く意識の中で、ただその一言を彼女に伝えたかった。


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