逆鱗について知って以来、朔の口数はめっきり減っていた。
其の姿はとても痛々しくて見ていられぬ程。
彼女のことが気掛かりでありつつも、俺は皆に事情を説明せねばならない事を言い訳にして、彼女から目を逸らしていた。
――そして、和議を結ぶ日が訪れた……。
神泉苑で結ばれる和議。
釈然としない様子ながらも、平清盛が其れを受け入れ、源頼朝も同意したように見えた。
だが。
高らかに宣言するよう声を張り上げ、清盛が小さな欠片を天に掲げた。
見覚えがある筈がない。それなのに、見覚えがあるのだ。
あれは今、自分の胸元にあるものと酷似している――。
「神子……あれは……」
白龍の声により、その疑問は真実であるのだと悟った。
あれは、逆鱗だ。
ただ違うのは己が持っているのは白い逆鱗で、清盛が持っているのが黒い逆鱗ということ。
白い逆鱗が白龍のものであるのならば、疑いようもない。黒い色をした逆鱗は……。
「黒龍っ!?」
朔の声が、その思考を裏付けるように高く響く。
「朔、駄目だ!」
今まで気力を失っていたことが嘘であったように、清盛に駆け寄ろうとする朔を、景時が其の身で止めた。
「兄上、離して! 黒龍の逆鱗が……っ」
「清盛!?」
「グッ…アアアアァァアア!」
将臣が声を張り上げ清盛の方を見ると、景時の判断は正しかったのだと確信した。
頼朝を守る為に立ち塞がった北条政子――いや、荼吉尼天が、平清盛を飲み込んでいた。
恐らくあのまま朔を清盛の傍に行かせていたら、共に飲み込まれていたに違いないだろうから。
其れは最早、人が持ちうる力ではなかった。
清盛を飲み込んだ荼吉尼天は、其れでも尚忌々しそうに形の良い眉を顰めて見せる。
「まだ、足りませんわね」
ゆるりとした動作で視線を此方に向けたかと思うと、先ほど清盛にしていたように、不可思議な力の奔流が身体を包み込んだ。
「ぐッ!」
学校の景色や家の風景――町並みが流れ出るように次々とあふれ出す。
とても大切なものが奪われて行く感覚が身を襲う。
「嗚。神子の魂とは何と甘美なのかしら」
恍惚とした様子が目に入る。
奪られてたまるか。こんな女狐に渡すものなどあるものか。
片膝を地面につきながら、ぎゅ、と唇を噛み締め、睨み付けるように荼吉尼天を見据える。すると、荼吉尼天は恍惚とした表情からまた苦々しそうなものへと表情を変えた。
「あら……未だ抵抗なさいますの」
見上げた女の顔は醜悪で、思わず吐き気を催す程に不愉快だ。
如何してやろうかと企む様な女との間に、ひとつの小柄な影が飛び出す。
「――ッ! 返して! あの人を……黒龍の逆鱗を、返して……!!」
普段からは想像もつかぬような激昂した声は、悲しい旋律となりて耳に響く。
そう。清盛が持っていた黒龍の逆鱗は、清盛ごとに荼吉尼天に飲み込まれてしまったのだ。
叫ぶ朔の姿を見た茶吉尼天は、愉悦そうに“嗤った”。
「まあ、怖い。……そう、そんなにあんな小さなかけらが大事なの。そう、ですわね。ふふ、良いわ。一途で可愛らしいのは、嫌いじゃないわ?」
悠然と微笑む姿に、違和感を覚えずにはいられない。
そう易々と返すようには見えないというのに、その予想を裏切るように何気ない口調で言ってのけたのだ。
だが、矢張り。
荼吉尼天の狙いは、他にあった。
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