ガラン、と何かが落ちる音がして、反射的に其方を向き――動きが、止まった。

「……ノゾ、ミ」

 震える声で名が呼ばれ、まるで体が逃げたがるように一歩、自然足が後退する。

 振り返ったその先には朔が立っていた。足元に転がった盆と団子は、先程「持って行く」と言っていたものなんだろう。

 聞かれてしまっていたのだ。

「今の、逆鱗の話は、本当なの?」

 何時から聞いていたのだろうかと、恐くなった。

 何も動揺する話ではなかったのかもしれない。けれど、咄嗟に何故だかいけないことをしてしまったような、そんな気がした。

 ぎゅ、とその指先が白くなる程に胸元で手を握り合わせ、朔が距離を詰めるように足を動かした。

「本当、なのね……?」

 ほんとうだよ。

 その一言が喉に何かが張り付いたみたいに出てこない。

 出るのは掠れた言葉にもならない空気だけ。

「だったら!」

 一際高くなった彼女の声に、びくりと身が竦む。けれども彼女はその事にすら気付いていなかったように切羽詰った顔をしていた。

「だったら……お願いよ、ノゾミ。一度……一度だけで良いの。私に其れを、貸して頂戴。あの人が……黒龍が消えてしまった理由を、探しに行かせて……」

 一筋、彼女の頬を透明な雫が伝った。

 其れは何と美しい涙だったのだろう。

 真っ直ぐで一途な、たった一人の他人の事だけを想う、こころが詰まった綺麗な涙。

 綺麗だと思ったのに、美しいと思ったのに。

 何故彼女の心の叫びを聞いた今、こんなにも胸が苦しいと感じるのだろう。

 彼女が黒龍を愛しているのは知っている。助けたいって想うのも、きっと当然のこと。

 だから今更動揺する謂れなんて、無い筈なのに。

「……あ」

 無意識のうちに、逆鱗を掌に握りこんでしまう。

 オイテイカナイデ。ハナレテイカナイデ。ドウカコノテヲハナサナイデ。

 ぐわんぐわんと頭の中でそんな声がする。

 若し、この逆鱗を手渡してしまったのならば、もう二度と此処で朔には逢えない?

 ううん。逢えるのかもしれない。

 全てが上手く行ったとしたら、黒龍と、幸せそうに寄り添っている朔と。

 ――不可解な想いだ。不可解な感情だ。何故、如何して。イヤだと感じる。彼女を取られたくないだなんて想う権利なんて、自分にはないのに。

「逆鱗の力があれば、私、あの人を助けてあげられるかもしれない。そうしたら今度は絶対に離さないわ、守ってみせるわ。……もう、後悔はしたくないの」

 真摯に言葉を紡いでいる彼女に、誰かの影が重なった。

 ……誰だった? 守りたいと言ったのは。

 誰だった? こんな瞳をしていたのは。

「助けたい……。死なせたくないわ……」

 アア、ソウカ。

 彼女は、自分だ。

 あの時雨に打たれながら皆を死なせたくないと、助けたいと想った自分と同じなのだ。

 稚拙なまでに一途に誰かを助けたいと言う想い。

 其れは君が俺に教えてくれたものだったね。

「……いいよ。あげる。朔に。君の幸せが、俺の幸せだもの」

 きっと俺は、こんなことでしか君に何かを返してあげられないから。

 だからあげる。白龍の逆鱗も……君を助けたいと思った、俺の想いも。

 逆鱗を握り締めていた手を緩め、そっと、首から掛けていた其れを朔に手渡す為に取り外そうと手を動かす。

「神子、其れはならない」

 咎めるような声は、誰のものかなど考えずとも知れる。

「先生?」

 何時の間に居たのか、彼は僅かに痛ましそうな顔をして、其れを止めた。

「出来ぬのだ。決して変える事の出来ない流れも、存在する」

 彼が何を言って居るのかなどとは解らなかった。けれど、一つだけ。何が言いたいのかは解る。

 ……黒龍を助ける事は、出来ないのだと。

「……何故! 何故なのですか先生! 未だ何も試していない、其れなのに如何して……」

 責め立てるような彼女の声は悲痛だ。

 だが、尚も彼は続ける。続けるしか出来ない、そう全身から言って居るように。

「――因果具時。……恐らく、逆鱗の力を以ってしても其の時代まで遡れることは無いだろう」

 残酷なまでの最終告知は、彼女の耳に如何届いたのだろうか。

 口許を覆うようにして緩やかに膝をついた彼女の目は、最早闇しか映されていなかった。

 其の闇から、ただただ水が溢れ零れ落ちて行くだけ。

 希望が見えて――そして、又直ぐ絶望して。

 何度だって彼女は傷つく。涙を流す。

 其れが哀しくて、苦しくて何とかしてあげたくて。……何も、出来なくて。

 如何して良いのか分からぬままに、包み込むように彼女を緩く、抱き込んだ。

 小刻みに震える身体が憐れだった。流れ落ち、肌に伝った涙は冷たかった。

 ――悲しみに暮れる彼女の瞳は、美しかった。

「……泣かないで、朔」

 囁くように耳に流し込んだ声も、最早彼女の耳に届かなかったのだと思う。

 彼女は嗚咽を洩らす事もなく、静かに静かに泣き続けていた。


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