「天狗は言っていたよ。お前が此処に来るのは恐らく自分が発作に苦しめられている時であるから、自分の過去を話してくれて構わない、と」

 陰陽師――安倍泰親は、緩やかに語った。

 師が昔、人々を守る為に怨霊を撃退していたと言う事。

 多くの生徒を持ち、弟子達に同じく怨霊より人々を護るように師事して居た事。

 そして……。

 一人の姫君に、恋をしてしまった事を――。

「相手は、さる高貴な身分の姫君だった。不自然な苦しみを発作的に繰り返し、其れが怨霊の仕業であると目されて怨霊を退治する為に天狗が雇われた」

 夜は刻々と深まって行く。

 だが、時間を忘れてしまう程に陰陽師の話に聞き入った。

 師の過去、師の苦しみの原因。其れを此の男は知って居る。

「身分違いの想いだ。普通ならば叶う筈も無く、天狗の片恋で終わっただろう……。だが、姫君も、天狗に淡い恋心を抱いておった。……たおやかな、姫であったことよ」

 男もその場に居たのだろうか。まるでその時の情景を思い浮かべるかのように目を伏せた。

「……師匠と、その人は……?」

 一緒になれた筈はない。

 現に師は今独り身であり、時折姿を晦ませる事があるが、そのような気配はまるで無かった。

 男が緩々と首を横に振り、否定をしてみせた。

「天狗は姫君を守る為に更なる力を望んだが、意味の無いことだった。いや、其れが天狗の心により深い傷を負わせたと言っても過言ではない」

 瞬時、何を言ったのか解らなかった。

 何故、強くなる事がいけないのか。守る為に強くなる、失わない為に強くなる……其れの何処が間違った事だと言うのだろうか。

 皆目検討がつかないという表情を見て取ったかの如く、男は思い出すのも痛ましげに目を細める。

「姫君は、怨霊に其の身を奪われた。……怨霊により苦しめられ、其の命を潰えた時にな。……幾重にも幾重にも怨霊の呪は姫君を苦しめ、魂も怨霊に絡め取られていた。怨霊の所為で現世に囚われた姫君の魂を救うには、最早道は一つしか存在せんかったよ……」

 ぞわりと身の毛がよだった。

 じわりじわりと怨霊によって弱らされた体。其れは怨霊への抵抗をなくす為のものだったのか。

「師は……」

 其れ以上続きを聞きたくないという感情と、聞かなくてはならないという気持ちがせせり合う。

 そんな心の葛藤を知ってか知らずか、男ははっきりとした声音で言葉を落とす。

「……切った。怨霊に囚われた儘苦しみ続けるよりは、と。……其の手で、姫君の形をしたモノを」

 強く穏かな師。そんな師に、このような過去があるなどとは思わなかった。

「強い怨霊だったよ。若しも後少しだけ天狗が弱かったのならば、死んでいたのは天狗の方であっただろう。……姫君を護る為に強くなったと云うのに、其の志故に自らの手で悲劇は生まれた」

 その瞬間、師の言葉を思い出した。

 何時か剣を習いたいと告げた時に師は言っていた。“失われた物は、如何にもならぬ”と。

 それはこの件があったからこその台詞だったのだろうか。

 だとしたら、師は未だに其の人物の影を引き摺っている。

「天狗は泣いたよ。三日三晩嘆き続けた。そして、自分を憎んだ。……天狗の目が見えなくなったのも、此の頃だ。自分でやったのか如何かは儂にも解らぬ。以来天狗は鞍馬に庵を構え、一人静かに暮らし始めた。……だが、話は其れで終わりはしなかった」

 ――まさか、と。そう思った。

 師の不自然な苦しみよう。慢性だと言わんばかりの口振り。そして何より、男は言った。

 師に呪が掛かっていると……。

「まさか……」

「察したか。心の闇に付け入られたのか、やがて天狗は姫君と同じ呪に掛かった。――恐らく此の侭行けば、死した後に天狗は怨霊と化すであろう……」

 何という事だろうか。何という、哀しい出来事なのだろうか。

 師には死の影がつきまとっている――。

「並みの男では無かったが故に、怨霊による呪が発動した頃には、長い長い年月が経っていたよ……」

 ゆうるりと立ち上がり、男は静かに語る。

 若し其れを認めてしまうのならば、師は何れ、怨霊になってしまう。そんな事を信じたくなかった。信じられなかった。

「何とか出来ないのですか?! ……如何か、……師を……」

 無駄だ、と冷静な自分が頭の中で声を発する。

 男は言った。“人の身では如何にもならぬ類の呪”だと。

 自然消えてしまった語尾には希望の一欠けらも残っておらず、虚しく響いた。

 しかし、男は腕を伸ばすと、部屋にある棚から幾つかの小瓶を取り出し緩やかに口を開いた。

「天狗とは長い付き合いだ。……救ってみせよう。喩えどんな事をしても」

「……え?」

 其れ迄の静かな口調とは一転して力強く紡がれた台詞は、まるで独り言のように聞こえた。

 助かる方法があるのか。

 その方法を聞こうと口を開きかけた時、其れを遮るかのように男は続けざまに口を開いたのだった。

「空が白み始めた頃だな。そろそろ天狗のもとへ参ろうではないか」




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