月を分厚い雲が覆い尽くし、世界は闇に包まれていた。

 漆黒の闇の中を疾走する。

 ともすれば均衡を崩しかねない程、足元は見えない。

 だが、進まねばならぬ理由があった、駆けねばならぬ理由があった。

「――……師匠」


 静かに崩れ落ちた師の身体を支えるように庵まで戻った後、人里に降り薬師を呼ぼうとした所を、苦しげにしていた師が止めた。

 ――此れは病ではないのだと。

 だからと言って放っておくわけにはいかなかった。幾ら書物で知識を蓄えたとて、このように苦しむ師を助けられるような知識はない。

 師を助ける為ならばと、迫害の恐怖を押してでも人里に降りる勇気が持てたというのに。何もせぬまま、師が苦しむのを見てはいられない。

 そう告げると師は、極々小さな声で、呟くように言った。

 其れならば、自分の知り合いの安倍家の陰陽師を呼んで欲しい、と。

 何故陰陽師なのか、その理由が解ったわけではなかったが、それで少しでも良くなるのならば……そんな気持ちが湧き起こり、二つ返事で頷いた。


 ピッ、と先の尖った枝が服の裾を裂く。他にも小さな引っ掻き傷がついたが、そんな事は気にしていられなかった。

「此処、か……」

 時刻はどれ程回った事だったか解らないが、人々がすっかり寝静まっている時刻だ。

 そして、館の前には門番以外の人影はない。

 不意に不安になる。

 突如鬼が現れて、目的の人物に逢う事は叶うだろうか? ……逢えないどころか、後を追われる不安すらある。

 だが、そんなことで悩む暇すらなかった。

 口許を覆った布の下、唇を噛みしめると二人の門番の前へと進み出た。

「――ッ! 何者だ!!」

「……夜分に無礼なことをしているとは重々承知している。しかし、安倍泰親殿にお目通りを」

 月に掛かった雲が流れ、淡い月明かりに姿が照らされる。

 門番の唇が、確かに動いた。 「鬼だ」 と。

 矢張り忍び込んだ方が正解であったかと身構えかけたその時、門番達は予想外の言葉を発した。

「泰親様に鬼が来たら直ちに通すようにと言い付けられている。……用心の為、武器類は全て預からせて貰うこととなる」

 まるで今宵の訪問が予定の内であったかのように、門番の一人が答える。

 しかし鬼への恐れと警戒は残っているようで、館に入れる前に武器を受け取る際、終始男の手は震えていた。

 直ぐに館の奥から一人の歳若い男が現れた。恐らく陰陽師の見習いであろう身形の男は、一言「此方へ」と言葉を発すと返事を待つこともなく歩き出した。

 やがて、一つの部屋の前に辿り着き、男が立ち止まる。

「……泰親様に失礼がないようお願い致します」

 そう言うと、一礼してまた何処かへと去っていった。

 多少の躊躇いはあったものの、何時までもそうしているわけにも行かず、部屋の扉に手を掛けると、ゆっくりと開いた。

 仄暗い部屋の中、小さな照明が辺りを照らす。部屋の中央には50前後の男が静かに座っていた。

「良く来た、鬼子。天狗の事で来たのであろう?」

 天狗、と。

 其れが師の呼称であると一瞬遅れて気がついた。

 師がこの男の元へ行けと言ったのは、泰親と呼ばれた此の男が師のことを知っているからか……。

「今宵は泊まって行かれよ。明日、あやつの庵に出向こう」

 何処か師に似た雰囲気を持つ男が発した言葉は、信じられないものであった。

 知って居るのならば、何故訪れたもかも知って居るのならば、急を要することすら知って居るだろうに。

「師は……、苦しんでいるんです」

 自然言葉尻が強くなり、手に力が篭る。

 その反応すら予期していたものであったかのように、泰親は頷いて見せた。

「今日明日で死ぬものではない。何より今直ぐ行ったとて、如何にも出来んことだよ」

 希望とも絶望とも取れる言葉が男から紡がれる。では、一体何であると言うのか。

 余程唖然とした顔をしてしまっていたのか、付け足すように、男の唇が動いた。


「あの男には、人の身では如何にもならぬ類の呪が掛かっている――」


【Back】【Next】

【リズTOP】
【遙かTOP】


安倍泰親…安倍晴明の五代目の孫。