「――外の槐は、そろそろ実をつける頃だろうか。……不思議だな、自分の名前は忘れてしまったのに、姫に“槐の君”と呼ばれていたのだけは鮮明に覚えている……」
ある日、師はそう言って、見えない目を開き、ぼんやりと庵の外の方角を見つめていた。
……其の言葉は、今になっても忘れることは出来ないでいる――。
――食事に薬を混ぜるようになってから朝一番に師の部屋を訪れるのが日課となり、何時ものように師の具合を確かめに行く。
まだ生きていると安心するための、辛い日課だった。
其れは静謐な空気が世界を包む、或る朝。
其の日は何故だか言い知れぬ不安が身を包み、落ち着かない気分だった。
「リズ……」
此方が口を開く前に、緩やかな口調で師が囁くように掠れる声を出す。
最早声を荒げる力も無い師に胸が掴まれた思いがしながらも、「はい」と返事を返し師の横へと膝を付いた。
「私には解る。此の命は今日、終わりを告げる――」
予め定められていた事実ではあった。
けれども其れを実際に師の口から聞くことだけはしたくなかったのに。
――死なせたくはない。
ふつふつと、抑えて来た気持ちが再び熱く滾るように浮き上がってくる。
目を伏せたままの師のやせ衰えてしまった貌を見下ろしながら、半ば無意識のうちに懐に潜めた逆鱗を握り締めていた。
此の逆鱗は、嘗て己に時空を越えさせた。
ならば、今再び此れを使い師を助ける事は出来ぬのだろうか。
今まで思いつかなかった考えが今になって脳裏に閃く。
妙案であると思いながら、師に告げる為に口を開こうとしたが敢え無く其れは師、自らによって遮られた。
「私の死は覆らぬ運命。仮令若しお前が私を助けようとしたとて、逆鱗は恐らく、私が怨霊にとり憑かれた頃へは戻してはくれないだろう」
まるで己の思考を、言葉を、先読みしていたかのように細く細く紡がれた言葉は、絶望と称する以外に何の表現は無かった。
全ては予定調和。仮令若し此処で死なずに済んだとしても、最早命運は尽きているのだと師は続けた。
「……お前は未来を見詰めなさい。若しも神子を失う事があったのならば、其の為だけに逆鱗を使いなさい。……決して諦めてはいけない」
今、自分を諦めろと言っているようなものであるのに、別の者の事は諦めるなと言う。
我侭な人だ、と場違いなくらいの気持ちが寂しく胸を過ぎった。
「リズヴァーン、顔を、触らせてはくれないか? 思えば私は、お前の顔をはっきりとは知らない……」
痩せ細った手がそっと伸ばされ、顔の辺りに近づく。
火傷の跡は消える筈も無く、確かに其処にあったけれど、――醜きものだと、思うけれど。
不思議と、師に触れられるのは恐ろしくはなかった。
ひんやりと冷え切った手が、そっと額から眉、目、鼻筋、顎と滑るようになぞる。
其の手つきは酷く優しく、懸命に涙を堪える事しかできなかった。
「――嗚呼、お前はこんな顔をしていたのか……。もっと、早くこうしていれば良かった」
満足げな声音で以って吐き出してから、師の手は頬の辺りに留まった。
力なく作られる微笑みは弱々しく、喋るのもやっとだという風情だ。
「……リズ、私の愛しい鬼子。忘れてくれるな、私は何時でもお前の幸せを願っている――お前は、私の自慢の……」
――師の言葉は、最後まで紡がれる事は無かった。
緩やかに落ちてゆく手を掴み、己の頬に押し当てたままにする。
……師はもう、自らの意思で動くことはない。もう二度と、語りかけてくれることもない。
「…………ぅ……っ」
冷たくなったその手が雨に降られたように濡れてしまうまで、涙が止め処なく溢れ出ていた。
――此れが、全ての終わりにして、一人の始まりの日。
彼の人を愛した女性が残した“槐”という忘れ形見。
其の名を決して忘れる事がないように、其れを大切なものとして綴った。
この日より、鞍馬山に住む鬼は、天狗としての名を継いだ――。
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