――日に日に師がやつれて行くのが解る。

 其の度に小瓶を叩き割ってやろうかという衝動に駆られては寸での所で踏み留まるのだ。

 残された時間は、少ない。

 今日も、膳を運びに師の寝室に入る――。


「師匠、夕餉を持って参りました」

 扉を開け中をのぞくと、師は既に起き、書物を紐解いてた。

 その光景に、思わず眉が寄る。

「寝て無くてはいけないと言ったでしょう」

 数ヶ月前の姿は最早見る影もない。

 細くなった腕で指で、緩やかに紙を捲る。

「しかしリズ、暇なのだ。解るだろう? 寝ているだけが、これ程苦痛であるとは思わなんだ」

 咎められた事で漸く書を伏せると、師は大人しく飯の支度がされるのを待つ。

 最初こそ自分で遣るよと言っていたのだが、此処数日は最早そうする元気もないようだった。

「――リズ」

「何か」

 支度を終え、下がろうとした所で小さく呼び止められる。

 振り返った視線の先の師の瞳は、静か過ぎて少し恐ろしい程だった。

「泰親の先見、お前に伝えておこう」

 ――師の口から出てきた名に、反感を覚えないまでも、聞かなくても良いという思いが生まれ、自然顔が厳しくなる。

 あの男が託した薬を師の食事に混ぜているのは自分であるが、薬を渡した男を赦してなどいないのだから。

「必要ありません」

 出来るだけきっぱりと言い切ったが、師はそんな言葉など聞こえてないように、緩く腕を組み、唇を開いた。

「お前は、神子を守る八葉の一人となるだろう――」

 神子、と。その名前に反応をしたのは事実。

 八葉という名称にも聞き覚えがあり、自分が其の一員であったのならばどれ程すばらしい事なのだろうと考えていた。

 しかしそれと同時に、以前の神子と対立していたのは鬼の一族であると知り、其れだけはありえないのだろうと思っていた。

 嬉しくない筈がない。けれど。

「あの男の言葉は聴きたくないのです」

 師の信ずる男を己は信じられない。

 師は少しばかり悲しげな表情を作り、ゆるりと首を横に振った。

「私の言葉だ。聴きなさい」

 強制的に言葉を発そうとする事自体師には珍しい。

 師にとってこれは言わねばならぬことなのだろう。

 ――自らの命が、尽きる前に。

 そう思うと自然押し黙ってしまう。其れを待っていたように、師も言葉を紡ぎだす。

「お前は何時か、此の鞍馬の山で源氏の若者と出会うだろう。其の者に剣を教えると良い。何故ならば其の者も、お前と同じ、八葉となるのだから」

 ……言葉が、出なかった。

 師が死した後も、己は一人でこの庵に残らねばならぬのか。

 ――たった、一人きりで。

「巡り合う人を大切にしなさい。大事な者はなりふり構わず護りなさい。仮令敵がどのような形を取ったとしても、護る者の為に、決して躊躇ってはならない。そして、何より――お前は、生きなさい」

 ひとつひとつの言葉が染み入るように胸に響く。

 けれども、此れが最後の教示であるようで、胸が苦しくなった。

 だから。

「……食事が、冷めてしまいます。食べ終わった頃にまた、参りますので」

 師の言葉には何ひとつ返事をする事無く、早足にその場から逃げ去った。




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