この間の事以降、弁慶さんと私の間には明らかにぎこちない空気が流れていた。

 無理もない、彼にしてみれば私は新参者で、単に“龍神の神子”というくらいしか価値が無い筈なのだから。

 自分だけが一方的に記憶のある状態。

 慣れていたつもりだったのに越えた時空の距離でこんなにも違う。

 水の空いた距離。近づけないことが歯がゆい、もどかしい。

「姫君。そんなことしたら爪が痛んでしまうよ」

 そうっと窘めるようにヒノエくんの掌が私の手を包み込む。

 知らず知らずのうちに苛立ちから爪を噛んでしまっていたのだろう、子供っぽい無意識の自分の所作に苦笑いが漏れた。

「ごめん、有難う」

 唇から爪を離し、何とか苦笑いを微笑へと変えヒノエくんの手から自分の手を引き抜こうとした。

 だけれど其れを阻止するように、きゅ、とヒノエくんの掌に力が込められる。

「……どうしたの、ヒノエくん」

 何時になく神妙な顔つきをした彼に、思わず息を飲む。

 捕まれた手だけが異様に温かくて――嗚呼、これはヒノエくんの熱なんだとぼんやりとした思考の隅で思った。

「どうしたの、は……こっちの台詞だよ、望美。最近のお前は、痛ましくて見てられない」

 じゃあ見なければ良いのよ、なんて軽口は叩けない。叩ける筈がない。

 何が痛ましいの。何が、痛ましく見えると言うの。

 私が問い掛ける前に、心得たようにヒノエくんは先に口を開いてみせる。

「何を急いているのか知らない。オレが聞くことでもないと解ってる。ただ、ひとつ言っておきたい」

 心底私を気遣っていてくれているのだと、掠れがちな声音で解る。

 手にヒノエくんの吐息が掛かりそうな程近く、何処か苦しそうな表情が良く見える。

「望美、お前が彼奴のことを本当に好きなのなら、これ以上無理をするべきじゃない」

 あいつ、と。

 名指しするわけではない、けれども、ヒノエくんの唇から紡がれるニュアンスは唯一人を指し示すものだと知れる。

 何時から気付いていたのか……。

 否、そんなことは愚問だった。

 恐らくは、私が時空を越えた最初から。

 ……最初から、ヒノエくんはきっと気付いていたのだ。

 何時もは紡ぐ甘い言葉も戯れ言も、私に向けて紡がれることはぱたりと無かったから。

 気遣い、優しさ、思い遣り。

 一人を見詰め続ける私をからかう事など、ヒノエくんはしやしない。

 ただ私たちの関係に歪な罅が入った今、漸く漸く口を動かす。

「全て解ってるとは言わないさ。ただ、お前が無理をしようとした分だけ、彼奴はきっと意固地になる。彼奴はきっと……先走る」

 ひとりで、きっと。

 自己犠牲がまるで最善の方法であるかの如くに。

 ――その事に、苛立ちを感じる人も、かなしみを覚える人も居ることを考えず。

 ヒノエくんの言ったことは言い得て妙。

 哀しいことに、その通りだ。

 自分一人で勝手に解決してしまおうとするのだろう、きっと。……きっと。

 でも。それでも。

「だったら、どうしたらいいの……?」

 解らない。何が、どの道が最善なのか解らない。

 愛しいと思う、好きになって貰いたいと思う。死んで欲しくないと思う。笑って、いて欲しいと思う。

 答えをヒノエくんに求めることは愚かな事だと思う。

 けれども私は今まで幾度となく幸せになれる道を模索して、結果、結末は何時だって悲劇だった。

 見つけられないの、たどり着けないの。私の力だけじゃ。

 ああ、ああ……私はこんなに弱い人間だったのか。

 今更ながらに自覚する。

「望美……」

 ほらヒノエくんも困ってしまっているじゃない。

 答えなんて、きっとヒノエくんも知らない。知らない、知らない。

 どうして知らないの。彼の甥なのに。

 知らないでいてくれて良かった。きっと答えを与えられたら罵らずにはいられない。

 相反する思いを胸に抱え乍、私はヒノエくんの言葉を待った。

 どれくらいの沈黙の後にか、ヒノエくんは小さく、呟きを漏らすように囁いた。

「ごめんな、こんな時に限って……上手い言葉が見つからない。……オレに唯、言えることは。……ちゃんと、彼奴と話せよ、って、言うことだけだ」

 不器用なまでの、途切れ途切れの言葉。

 本当にどうしたら良いのか思いつかないと言った顔は、何時も大人びた振りをしてるヒノエくんを年相応に見せる。

 何でだろう、どうしてか。

 そんなヒノエくんの表情に背中を押されるように、私はひとつ頷いた。

 そうして私は彼の元へと向かう。

 何が言いたいかなんて解らない。何を話すべきかなんて知らない。

 ただ、言葉を交わすために……向き合う為に。



「――弁慶さん、少し、お話しませんか」

 私が何とか彼に向けて紡ぎ出した声は、風に掻き消されそうな通りの悪いソプラノ。




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