■傍にいたいという願い 4
「朔、疲れてない?」
 現代の若者より、普段歩き慣れている分だけ疲れは少ないだろうとは思ったが、矢張り心配で声をかけてしまう。
「え? えぇ、大丈夫よ。そんなに柔じゃないわ」
 睫毛に縁取られた目を緩やかに瞬かせ、朔は仄かに微笑んでみせた。
 けれど、彼女の“大丈夫”は、それ程あてに出来ないと密やかに思う。
 例え熱があっても、怪我をしててもそう言いそうな気がするのだから。
「無理はしないで」
 ノゾミの方こそ、と語るような視線を向けられ思わず曖昧な表情になってしまう。
 ……無理をしないと守れないのだとしたら、間違いなく自分は無謀な行動に出るだろうから。
 話を濁すような態度が気に掛かったように、朔は非難めいた顔をして、唇を開く。
 ――しかし、その言葉は、紡がれることは無かった。
「うわっ!」
 急にずしりと肩に掛かった重みに、驚きの声を出してしまう。
 それは温かく、人の腕であるのは確か。
 視界に入ってきた赤い色に、肩を組むように腕を乗せてきたのがヒノエだと解った。
「女の子には随分とお優しいことで」
 今までは女のフリをしていたからこその態度だったのか。
 随分とこにくたらしく絡んでくるようになったものだ。
 しかしそれは不思議と不快ではなく、友人が一人増えたような気やすさを今では感じていた。
 正直、甘い言葉を囁かれるのは男の自分にとってはむず痒いものだったから。
「別に……元々俺、女は嫌いだし」
 何気なく言った一言に、至近距離にあったヒノエの顔が、それと解る程に歪む。
 女好きのようなヒノエにしてみたら信じられないことかもしれないと予想していたが、実際、次に紡がれた言葉は想定外だった。
「さらりと“朔は特別”みたいなこと言いやがって……」
 何だか拗ねたような印象を抱かせる表情をヒノエはしてみせた後、どういう意味だと問う前にするりと腕を解き離れて行く。
 彼女にもそんな風に聞こえたんだろうかと慌てて其方を見てみると、朔は、変わらず緩く笑みを浮かべるだけ。
「ヒノエ殿ったら、私にノゾミを取られたみたいで厭なのね」
 落ち着いた声音で紡がれる言葉には思わず眉を寄せずにいられない。
 其れはどちらかと言うと逆であるような気がする。
 男に対して「取られたら厭」だなんて感情は、ヒノエはきっと抱かないだろうから。
 しかも其れを女性に向かって、だ。
 そういう事じゃなく、ヒノエのあの意味深な台詞にも朔は動じない。
 守りたいとは思って居るけれど。
 悲しんで欲しくは無いと思って居るけれど。
 この気持ちはきっと、恋愛感情じゃないのだと自分に語りかける。
 なのに、この態度が些か寂しいだなんて、おかしい。
 ――恋愛感情ではなくとも、彼女は自分にとって特別な人だから、なのだろうか?
 だから、こんな風に受け流されるのが寂しいのだろうか?
「……ヒノエの云う通り、朔は特別だよ」
 歩幅をあわせようとしなくても、当たり前のように朔の歩く速度とぴったり合う。
 元々がこのペースだったわけじゃなく、それだけ俺は時空を遡ってから朔の隣に居る。
 トクベツってことには変わりなかったから、正直に言った。
 少しは、動揺してくれないかと期待を込めて。
 けれど、朔はより一層、素直に嬉しそうに微笑んだだけだった…。
「私もノゾミは特別よ? 大切な、私の対――」
 対じゃなければ特別でない?
 嬉しそうに笑む朔とは対照的に、気持ちが沈んできた。
 ……如何して胸が痛いんだろう……。


「……っと、ゴメン、一寸……」
 念頭から消えかけていた、とは言わないが、目の前の気持ちに意識が行き過ぎて、約束の場所を通り過ぎかけていた。
「先輩? 如何したんですか?」
 譲のその問いに応えずに、目で笑うようにしてこっち、と一人率先して掛け始めた。
 振り向かずとも、皆が慌てて追うようにしているのが解る。
 大丈夫、置いていかないよ。
 心の中でそう呟きを漏らし、迷い無く足を動かす。
 幾らもしないうちに何時の間にか見慣れてしまった背中が移る。
 俺は間違いはないのだと迷う事無くその背に呼び掛けた。
「将臣ー!」
 声が届くくらいに、ちゃんと、呼んでるのが解るくらいに。
 その声に反応したように、広い背を持った男は緩やかに振り返る。
「よぉ、遅かったじゃねぇか」
 決して怒っている風ではなく、鷹揚な言葉が向けられる。
「……兄さん!?」
 驚いた声が背後から聞こえてくる。
 そうだ、二人はこれが初めての再開だったのだ。
「ノゾミ、こいつ誰?」
 追い付いたのか不振げな声を出したのはヒノエ。
 先程から少し、機嫌が良くない。
「譲の兄貴。ンで、俺の幼なじみ」
 手早く皆に説明している間に、兄弟で言葉を交わしている。
 それは外見の話や、今までどうしていたのかと言った話だった。
 やがて、会話は俺のことに移り変わって行く。
「兄さん、実は春日先輩は……」
「将臣は俺が男だってこと知ってる」
 譲の言葉を征すように早口で言ってやった。
 俄かに表情を変える譲に、将臣が更に言葉を続けた。
「元の世界に居た頃からな」
 何のことでもないようにガシガシと頭を掻いている。
 それとは対照的に、沈んだ表情になったのは譲だった。
「……兄さんには、話してたんですね」
 それは何処かのけ者にされた事を淋しがるような子供に見えて居たたまれなくなる。
 俺の気持ちを将臣が読み取ったのか常のように飄々として軽く肩を竦めてみせる所作をした。
「そりゃ仕方ねぇだろ。プールとか一人で言い訳してたらただのサボりになるからな、幼なじみとして口添えとかしてやってたんだよ」
 そう、将臣には何時も助けてもらっていた。
 教師達は男であることも、そうせざるを得なかった事も知っている。
 しかし、クラスメートには本当のことなど言えるわけがないのだから。
 それでも尚譲は表情を曇らせたまま。
 俺は手を伸ばし、譲の頭を軽く叩くように撫でてやった。
「せ、先輩……?」
 困惑するような視線を向けられ、口端を吊り上げ笑みを作ってみせる。
「あのな、譲。俺がお前に話さなかったのは、たぶんお前が納得しねぇからだと思ったからだ。……話したくなかったとか、そんなんじゃないから、な?」
 それだけは伝えたかった。
 信頼していなかったわけじゃない。
 ただ、知らせたときにその理由を突きとめられるのが恐かっただけ。
 この世界で打ち明けた時、何故、とは問うて来なかったが、それは今がそのような場合でないことをこの賢い後輩は誰に学ばずとも知っていた。
 真意は伝わったようで譲の顔には僅かながらに笑みが戻ってくる。
「三人は、とても仲が良いのね」
 ふんわりと優しい声が聞こえて視線をそちらに向けると、朔が悠然とほほ笑みを浮かべていた。
 それはまるで、仲睦まじいことを喜ぶような“お姉さん”の顔。
 こどもじゃないよ、と言ってやりたかったけど……。
 朔が本当に、とても穏やかに笑っていたから……。
 今、この時ばかりはそれでも良いかもしれないと、自然、顔に笑みが広がりながら思ったのだった――。


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