■傍にいたいという願い 3
 黄昏に染まった教室。
 チョークの粉の匂いや、肌寒い風。
 夢であることを忘れそうなほどリアルな世界に思えてくる。
 何故か帰りたいとは強く思えない場所、けれども、とても懐かしく思える場所の空気を吸い込んだ。
 気持ちを落ち着け、前の時、将臣が座っていた机の方を見やる。
「将臣っ!」
 目一杯、彼の名前を呼んだ。
 以前とは違い鎧を来たままの将臣が其処にいる。
 それは、所詮これがや夢であることをもの語っている証拠だ。
 呼び声にようやく気付いたのか、驚いた表情で将臣がこちらを見た。
「ノゾミ……?」
 随分と会っていないような気がしたのは、追い詰められていたあの時に一緒にいなかったからだろうか?
 久しぶり、と声をかけ、将臣の正面の机に、あぐらをかくようにして座る。
 それを見た将臣が何故か慌てたように唇を開いた。
「ば、バカッ! 見たくもねぇスカートの中身見えるだろうが!」
 見たくもねぇ、は余計だと思いながらもひとつ、引っ掛かる部分があった。
 今、この男は「スカート」と言ったか?
「俺、スカート履いてねぇけど」
 元々将臣と二人の時には素の喋り方をしているので、乱雑な言葉も自然に口から出てくる。
 袴と呼ぶには短すぎる気もするが、ぱっと見でもスカートでないことは解る筈だ。
 裾を持ち上げ、ほら、と主張してみせても将臣は訝しげに眉を寄せるばかりである。
「だってそれ、制服だろ?」
 指差された先を見やってみても、自分では切袴を履いているようにしか見えない。
 尚も否定を続けようとして、はたと思い当たった。
 以前は自分も、相手が制服姿に見えていたのだ、逆があっても可笑しくはない、と。
「……あ、嗚呼。まァ良いや。…なァ、将臣。お前、今何処に居んの」
 この話題には深く触れないようにして、問いかける。
 暫しの逡巡の後に将臣は唇を開いた。
「京に居る――んだが、お前が思ってるのとは、多分違う場所だろうけどな……」
 回りくどい言い方に、思わず眉を寄せてしまう。
「同じ場所だよ。……俺も今、京に居るよ。将臣、明日、下鴨神社で合流しよう」
 言い放った俺に、将臣は少々戸惑った顔をしてみせる。
 けれど、曖昧な笑みを浮かべながらも、頷いてみせたのだ。
「OK。普段現れないお前が夢に現れてそう言うんだ。信じようじゃねぇか」
 そこでふと気付く。
 俺は逢えるという確証があったから容易に言えたが、将臣にとってこれはただの夢だ。
 疑って当たり前の筈なのに、本当か、とも問い質しもせずに夢の中の俺の発言を信用してくれている。
「……有難う……」
 それが何だか嬉しくなって、極々自然に感謝の言葉が唇から流れていた。
 将臣は、くしゃりと笑い、当然だろ。と言ってみせる。
 矢張り将臣と話している時が、一番気が楽だと、じんわりと思った。
 だからこそ、伝えなくちゃ。
「なァ、将臣……。聞いて欲しいコト、あるんだけど」
 将臣に伝える事は、怖く無い。
 ただ、少しどきどきしている。
 全てを打ち明けたわけではないけれど、今までだって色々話を聞いてもらった相手だから。
 だから、肯定をして、出来れば背中を押して欲しいんだ。
「嗚呼、何だ改まって」
 促す声は、とても優しく俺の耳に響いた。
「俺、もう……女のフリして生きるのは、止めたよ」
 俺が、如何して女のフリして生きていたのか、知っている奴に、背中を押して貰いたい。
「……え?」
 生まれてから一度も、不満を抱えながらも下すことのなかった決断。
 其れを知って居るからこそ、将臣が驚くのも無理はないと思った。
「――もう、偽らないで生きるよ」
 ゆったりと口を動かし、宣言できるのは何処か誇らしい。
 自然に顔に笑みが広がるのを抑えられなかった。
「……あ、ああ。そう、か。……はは、吃驚しちまったぜ。……だが、……良く、決意したな……」
 成長した、と温かく見守ってくれている視線は、『兄貴』みたいで、少し照れくさい。
「……うん」
 将臣が机から降り、俺の前に立つ。
 そして、俺の頭をぽんぽんと叩くように撫でた。
 嗚呼、本当に……こんな兄が居てくれたのなら、初めから男として生きられただろうに――。
「……なぁ、ノゾミ。……如何いう心境の変化か聞いても良いか?」
 ――何故?
 そんなのコトは簡単だ。
 守りたかったから。
「……強くなりたかったんだ。色々、守れるくらいに」
 色々?
 皆を?
 そう、その気持ちに偽りはない。
 けれど、あの日。
 運命を変えたいと強く願い、時空を越えたあの時何より強く願ったのは――。
 彼女を、守りたかったということ。
「……守りたかったんだ」
 今は未だ口に出して言う勇気は無いけれど。
 胸の奥に秘めた言葉だけれど。
「――そう、か」
 俺の言葉の中に、含みがあるのを将臣は気付いたのかもしれない。
 けれど、俺が言わない以上、将臣は聞かないだろうから。
 その時、何故だかはわからないが、もう直ぐ目覚めるという予兆が胸を掠める。
 それは将臣も同様だったのか、多少慌てたように口を開いた。
「そういや、クリスマスプレゼント……」
 言って、机の中を探そうとした将臣に向け、俺は言葉を放つ。
「もう貰ったよ。コレだろ?」
 掲げて見せた懐中時計は夢の中だというのに刻々と時を重ねている。
 まるでこの夢が、現実と繋がっているんだよと語ってくれているように。
「将臣、明日ちゃんと来いよ!」
 霞み行く世界の中で、将臣が微かに笑ったように見えた。

「――パイ……先輩、朝ですよ。起きて下さい」
 肩を揺すられて、遠くに行っていた意識がふっと浮上するのが解る。
 もう少しまどろんでいたくて、そっぽを向くように布団を被った。
「……後5分……」
 そんなお決まりの台詞を吐いてみたら、譲の呆れたような溜息が聞こえる。
「良いですけど……朝ごはん、冷めちゃいますよ」
 それは拙い。
 慌てて飛び起きると、譲此方を見ていた。
「……先輩、今日は寝起きが良いですね。……それに……。……何か、良い夢でも見たんですか?」
 譲、今日、お前の兄貴に逢えるよ。
 そう言おうか如何か少しだけ悩んだのだけれど、その時譲は、きっと驚くだろうな。
「ナイショー」
 そう言ってやると、譲は仕方なさそうに曖昧に笑っていた。
 譲に悪戯っぽい笑みを向けて立ち上がると、朝の空気を思いっきり吸い込む。
 さあ、顔を洗って皆が揃う食卓に向かおう。
 昨日の気まずさなんか無かったみたいに彼女に「おはよう」って挨拶をするんだ。
 そうしたら、君はきっと、少し戸惑う素振りを見せながらもお早うと微笑んで返してくれる筈だから。
 ――嗚呼、今日もとても良い天気だ…。

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