第一話:蒼穹の月
――時空を越える回数を増すことに、怨霊も強くなって行っている。
そう気付き始めたのは何時だっただろうか。最初は極々些細な変化で、直ぐには気付けなかった。
しかし以前ならば確実に一撃で仕留められた怨霊も、此処最近の運命では幾度か剣を振るわねば立ち上がり、襲い掛かってくる。
――何かが可笑しい。
そう気付いた時には既に遅かったのかもしれない。
不安や焦燥が皆に伝染しているかのように、怨霊との戦いは日々厳しいものへと成り代わって行っていた。
「?! 望美、下がれ!」
飛ばされた声に怨霊が迫ってきて居る事に気付き、慌ててバックステップを踏み怨霊との間合いを広げた。
恐らく今のまま立ち尽くしていたら、怨霊に切られていただろう。
「有難う御座います、九郎さん」
脂汗が額にじわりと浮き、戦局が不利であることを悟った。
彼とてそうであったのだろう、表情は厳しく、神経が張りつめている。
「神子、此処は一端引いた方が良い」
「ッ! はい、先生」
此の侭では危ないと、最終告知を喰らった、そんな気分だった。
けれども此処で無理をして皆を危険に晒すわけには行かない。
時には逃げる事も必要であるのだとは知っていた。
だが――。
此処で逃げて、次に勝てる自信も無かった。此処で勝っておかねば、もう怨霊には敵わぬような、そんな気すらした。
その逡巡が次の行動を鈍らせたのかもしれない。
次の瞬間、怨霊が一気に間合いを詰め、襲い掛かって来た。
「あ……ッ!」
咄嗟、避けられないと気がついてしまった。
恐らく他の人物が駆けつけようにも距離的に間に合わないだろう。
ヤラレル……。
嘗て無い程に、感じた。
覚悟をし、ぎゅっと目を瞑ったその瞬間、ぐい、と肩が引かれ重力のままに後ろに引き倒される形になる。
怨霊を遮るように立ちふさがったのは知って居る誰でもない、細いという形容が似合いそうな男の背中。
目に飛び込んだのは、あの天高く在る空の色。
いや、それよりもずっとずっと透き通り、何処か冷たい感じのする……今まで見た事もないような、蒼穹の月を、見ているかのようだった。
「下がっていろ、白き龍の神子」
涼やかな声は此の場が戦場である事を忘れさせるような程に流れ出た。
あなたはだれ?
すらりと伸びた背中を見上げながら出した声にならない呼びかけは、きっと届かなかった。
蒼穹の色を持つ人が、しなやかに腕を持ち上げ、其の指が、僅かに動く。
サァ、と一瞬だけ陽が翳ったかと思うと、小柄な影が怨霊の前に躍り出た。
「こども……?!」
薄縹色の水干を着た15にも満たぬ少年。とても怨霊に立ち向かえるようには一見見えなかった。
だが、直ぐにその少年の体から無数の細い糸が伸びているのが見え、其の少年が普通の人間でないことがわかった。
その少年は、キシキシと不自然な音を立てたかと思うと腕が歪に形を変えた。
まるで両腕が鎌のように歪曲し、鋭く尖っている。
くん、と目の前の男が両方の手の中指を引くと鎌が大きく広げられる。
「葦切。やれ」
ぐ、と男が指を全て第二関節から折り曲げる。
その動きに合わせるように“アシキリ”と呼ばれた少年の腕は怨霊の体を抱きこむようにして――
引 き 千 切 っ た 。
断末魔の悲鳴というのは当に今、怨霊が発しているような声のことなのだろう。
思わず耳を塞ぎたくなるような衝動に駆られながらも、男が操るアシキリの動きから目が逸らせずにいた。
まるで気に入らない玩具を叩き壊すかのように次々と無に掻き消えて行く怨霊達。
其れは確かに、自分達が今まで苦戦してきたものの筈だ。
信じられなかった。今目の前で起きている光景が。
先程までに懸命に戦っていた事が嘘であるかのように、突如現れた男の登場で怨霊の姿は消えた。
ふ、と息を吐き出した男を見て、流石に疲れて漏れた溜め息だとつい思ってしまったが、そうでは無かった。
「此の程度に梃子摺るとは……先が思い遣られる。何故私がこのような茶番に付き合わねばならぬのか……」
ゆるりと振り返り、呆れたように暗い色した瞳を投げかけながら言い放つ。
一種、傲慢とも取られかねない口振りは冷たい貌をした男に不思議な程に似合いすぎていた。
「…………あなたは、誰?」
今まで一度だって、此の蒼穹色した男が居る運命に遭った事はない。
立ち上がる事も出来ずに、茫然と男を見上げたまま呟いた声は、今度は男にも届いたようだった。
「――比胡。我が名は比胡。とある神より、お前達を手助けするよう命じられた者だ」
ヒコ。
そう名乗った男の声は、まるで蒼穹の色をした月のように凍えたようなものだった……。