■名を継ぐ者 7
 月を分厚い雲が覆い尽くし、世界は闇に包まれていた。
 漆黒の闇の中を疾走する。
 ともすれば均衡を崩しかねない程、足元は見えない。
 だが、進まねばならぬ理由があった、駆けねばならぬ理由があった。
「――……師匠」

 静かに崩れ落ちた師の身体を支えるように庵まで戻った後、人里に降り薬師を呼ぼうとした所を、苦しげにしていた師が止めた。
 ――此れは病ではないのだと。
 だからと言って放っておくわけにはいかなかった。幾ら書物で知識を蓄えたとて、このように苦しむ師を助けられるような知識はない。
 師を助ける為ならばと、迫害の恐怖を押してでも人里に降りる勇気が持てたというのに。何もせぬまま、師が苦しむのを見てはいられない。
 そう告げると師は、極々小さな声で、呟くように言った。
 其れならば、自分の知り合いの安倍家の陰陽師を呼んで欲しい、と。
 何故陰陽師なのか、その理由が解ったわけではなかったが、それで少しでも良くなるのならば……そんな気持ちが湧き起こり、二つ返事で頷いた。

 ピッ、と先の尖った枝が服の裾を裂く。他にも小さな引っ掻き傷がついたが、そんな事は気にしていられなかった。
「此処、か……」
 時刻はどれ程回った事だったか解らないが、人々がすっかり寝静まっている時刻だ。
 そして、館の前には門番以外の人影はない。
 不意に不安になる。
 突如鬼が現れて、目的の人物に逢う事は叶うだろうか? ……逢えないどころか、後を追われる不安すらある。
 だが、そんなことで悩む暇すらなかった。
 口許を覆った布の下、唇を噛みしめると二人の門番の前へと進み出た。
「――ッ! 何者だ!!」
「……夜分に無礼なことをしているとは重々承知している。しかし、安倍泰親殿にお目通りを」
 月に掛かった雲が流れ、淡い月明かりに姿が照らされる。
 門番の唇が、確かに動いた。 「鬼だ」 と。
 矢張り忍び込んだ方が正解であったかと身構えかけたその時、門番達は予想外の言葉を発した。
「泰親様に鬼が来たら直ちに通すようにと言い付けられている。……用心の為、武器類は全て預からせて貰うこととなる」
 まるで今宵の訪問が予定の内であったかのように、門番の一人が答える。
 しかし鬼への恐れと警戒は残っているようで、館に入れる前に武器を受け取る際、終始男の手は震えていた。
 直ぐに館の奥から一人の歳若い男が現れた。恐らく陰陽師の見習いであろう身形の男は、一言「此方へ」と言葉を発すと返事を待つこともなく歩き出した。
 やがて、一つの部屋の前に辿り着き、男が立ち止まる。
「……泰親様に失礼がないようお願い致します」
 そう言うと、一礼してまた何処かへと去っていった。
 多少の躊躇いはあったものの、何時までもそうしているわけにも行かず、部屋の扉に手を掛けると、ゆっくりと開いた。
 仄暗い部屋の中、小さな照明が辺りを照らす。部屋の中央には50前後の男が静かに座っていた。
「良く来た、鬼子。天狗の事で来たのであろう?」
 天狗、と。
 其れが師の呼称であると一瞬遅れて気がついた。
 師がこの男の元へ行けと言ったのは、泰親と呼ばれた此の男が師のことを知っているからか……。
「今宵は泊まって行かれよ。明日、あやつの庵に出向こう」
 何処か師に似た雰囲気を持つ男が発した言葉は、信じられないものであった。
 知って居るのならば、何故訪れたもかも知って居るのならば、急を要することすら知って居るだろうに。
「師は……、苦しんでいるんです」
 自然言葉尻が強くなり、手に力が篭る。
 その反応すら予期していたものであったかのように、泰親は頷いて見せた。
「今日明日で死ぬものではない。何より今直ぐ行ったとて、如何にも出来んことだよ」
 希望とも絶望とも取れる言葉が男から紡がれる。では、一体何であると言うのか。
 余程唖然とした顔をしてしまっていたのか、付け足すように、男の唇が動いた。

「あの男には、人の身では如何にもならぬ類の呪が掛かっている――」


安倍泰親…安倍晴明の五代目の孫。
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