■名を継ぐ者 6
風が吹く度に小さな花々が慎ましやかに揺れる。
その風景に僅かに眼を細め、見入る。
「……何時もより良い風が吹いている。此の地も、お前を祝福してくれているな」
穏かに紡がれる男の声は耳に心地良く、気遣ってくれているのが解る。
何を馬鹿な、と思いながらも男の言葉を聞くと其れが真実のように聞こえてくるから不思議だ。
眼を閉じると全てを失ったあの時の光景が鮮やかに浮かんでくる。けれども、静かな地、穏かな場所……今此の地には恐怖という感覚は似つかわしくないような気がした。
「さて、私は暫く此の辺りで薬草を集めて来よう。お前は此処でゆっくりしていなさい」
普段であれば其の手伝いをするのが己で、自らも申し出るのだが……師の思い遣りが感じられ、口を覆った布を整える仕草をしながら頷いてみせた。
「……ただいま」
口に出して言ってみても、其れに返ってくる声はない。
ただ静かに吹く風が、金の髪を揺らすだけ。
その事に僅かの侘しさを覚えながら、緩く首を横に振った。
突如。
背筋にぞわりとしたものが駆け抜け、その場から飛び退き腰に差していた剣を引き抜きながら数歩分の歩幅を稼ぐ。
チャキ、と音がする程力強く剣を構え、次の瞬間、動きが……止まった。
剣の先に居たもの。背後に感じた気配。……其れは紛うことない、あの時に見たもの……
――怨霊、だった。
過去というには生々しすぎる記憶が濁流のように甦り、いけないと解っていながらも腕が、剣を持つ手が震えてしまう。
倒さなければならない。今の自分なれば浄化は出来ぬなれど倒せるだけの力はある筈だ。
倒さなければならない。――なのに。
なのに、如何して。
この腕は、動かない……?
「あ、ああ……」
半歩、自然に足が引く。
最早人としての原型は、鎧と骨しかない怨霊は、見た目にも醜悪で、心に重く圧し掛かって来る。
逃げてはいけないと解っているのに、立ち向かわなければならないとわかっているのに。
其れなのに、心に深く根付いた恐怖心は確実に身体に絡み付いて来ている。
「リズヴァーンッ!!」
遠くから師の声が聞こえる。
剣を、振るわなければ。
剣を教えてくれた師の為にも、大切なものを守れるようになったことを証明するためにも、怨霊を退けなければ。
「っく……!」
恐怖心なんて、なければ良いのに。どんなに己に言い聞かせてみても、身体は動かない。
怨霊が近づいて来る。
だというのに逃げる事も剣を振るうことも出来ずにただ立ち竦んでいる。
怨霊の剣が振り上げられた瞬間、目の前が真っ暗になった――。
「ッゥ!!」
左肩に強い衝撃を感じる。然し此れは切られた感覚ではない。
眼を開くと其処には地面が横たわり、何か、大きなものが身体に覆い被さっている。
其れが師の身体であることに気付いた頃には、既に師は立ち上がり、怨霊と対峙していた。
眼が見えていない不利益をものともせず、怨霊の脇腹を目掛け横から剣を薙ぎ払う。
強烈な一撃を喰らった怨霊は、哀しい、悲鳴のような声を上げその姿を薄れさせて行く。
「こんな所に怨霊とは……――――か……」
呟かれた師の言葉は聞き取れず、その後姿をただ見詰める事しかできない。怨霊の姿が完全に掻き消えた所で俯いた。
自分の不甲斐なさに、涙が出そうになった。
四肢は伸び、剣を振るえるようになったとて……何の役にも立たぬ。
ぐ、と草を握り、歯を食い縛る。何と己の精神は脆弱なのだろうか……。
「……ぐ、ぅ……ッ」
苦しみ、呻くような声が聞こえ、慌てて顔を上げると其処には師が胸を押さえ蹲っていた。
その苦しみようは尋常ではなく、先程の怨霊に遣られたのかと駆け寄ってみるものの、外傷があるようには見えない。
「師匠! ……師匠ッ!」
「大丈夫、だ……っく」
小刻みに震える身体を支えながら、リズヴァーンは訪れ行く悲劇の気配を感じずにはいられなかった――。