朔と神泉苑に行ったあの日より、胸に何かがつっかえたような、そんな感じ。

 ――以前の運命とは違い、人は死なずにすんだ。其れは俺が運命を知ってしまっていたから。

 朔の胸の内に其処まで強く残っている人がいるのは不思議じゃない。

 だって、一つしか年齢は違わないのに、あれほど大人びているのだから。

 勝手に其れを“生きている世界が違っているから”と決めつけて居ただけ。

 膝を抱えて廊下に転がってみても、靄は晴れない。

「あら、ノゾミ如何したの? そんな所に転がって」

 通りかかったのか、少し笑いを含んだやわらかい声が聞こえる。君の事を考えてたんだよ、なんて、言う筈もないけど。

「……夏の熊野って、暑いなと思って」

 当たり障りのない言葉は彼女の耳にはうそ臭く響かなかったようで、同意を示すようにそうね、と頷いてみせるだけ。

「でも幾ら暑いからって何時までも転がって行くと風邪を引いてしまうかもしれないわよ。もう夕刻も近いんだもの」

 ほら起きて。と促すように言いながら、引き起こしてあげるとでも言うかのように両の手を差し伸べてくる。

 何時からか習慣になったようなこの行為も、ふとした瞬間に気恥ずかしくなる。まるで小さな子どもだ。

 差し伸べられた手を取ってみると、まるで闇の淵に沈んだ体を助け出されているみたいだ。其の救いの手に緩く手を乗せると、柔らかく包み込まれる。

 剣を握り始めてまめだらけになった手はきっと硬くなっていて、痛くないだろうかと心配になるけれど、朔は相変わらず微笑んでくれている。

「ありがと」

 こんな風に面倒臭がらずに世話をしてくれるのは、まるで“おかあさん”みたいで、少しだけ、本当に、朔におかあさんになって貰いたくなる。

 きっと彼女の子どもは愛されて、幸せに育つことだろうと思わずにはいられない。

 俺は彼女に“母親”を見ているのだろうか?

 だから、彼女が結婚していたと聞いて少し寂しいようなそんな気分になったのだろうか?

 ――母親を取られた、子どものような感情を抱いたのだろうか。

 そんな気もするし、そうじゃないような気もする。

 母親ならば、父親がいるのは当然じゃないか。

 ……若し朔におかあさんになって貰いたいのだとしても、見た事もないが、黒龍に父親になってもらいたいとは思わない。

 土台無茶苦茶な仮定だと密やかに苦く笑う。

 少しだけ力を借りて起き上がった所で、朔が思い出したように口を開いた。

「そう言えば、先程将臣殿が捜していたわ。後で訪ねてみたら如何かしら」

「将臣が?」

 立ち上がると、朔の目線が自分より3センチ程下にあった。

 骨が軋むような感じがして、伸びているんだなあと頭の片隅で考える。

 違う方向に飛びそうになる思考を引き戻し、一体何の用であったのかと思ったが、思い当たることがなくて、単に積もる話でもあるのかという結論に達した。

「ん、解った。将臣は部屋に居る?」

「ええ。あ、そうそう。さっきね、美味しいお団子を兄上が買って来たの。後で持って行くわ」

 ゆったりと微笑みそう言ってくれる朔に頷き返しながら、俺は将臣が居るだろう部屋へと向かい、歩き出した。

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