指で僅かに触れただけでも、水面に綺麗な円を描き、広がって行きそうだ。
試しに、屈んで少しだけ指を浸してみると、そこには見事な模様が出来上がる。
予想以上に冷たかった神泉苑の水。
引き抜いた指についた水滴を手を振ることで払って、共にきた人を顧みた。
「こういった散歩も、悪くないわね」
心なしか彼女の声が何時もよりも穏やかに聞こえて、この場を選んで良かったと思える。
「嗚呼、凄く水が綺麗だ」
正直な意見に賛同してくれるように、朔は柔らかく微笑み、緩く頷きながら傍に来てくれた。
「ここは神子が祈りを捧げ、龍神が応える場所」
龍神の加護が深い場所よ、と。俄かに彼女の声が真剣味を帯び、濃い色の瞳が神泉苑を見詰める。
一緒に居るのに、彼女の心は此処に無い。何処か……別の、誰かを思い浮かべているように見えて、心が震えた。
「朔……?」
寂しげで、悲しげで、こんなにも清浄な場所であるのに、心に翳りがあるように見える。
……龍神の加護が深い場所。
今、朔はそう言った。ならば、朔の龍は何処に居るのだろう。
以前の時空でも、今の時空でも、一度たりともその姿を見ていない。
朔が、“黒龍の神子”と名乗っているのにも関らず――だ。
「朔の龍、って……」
聞いて良いのか如何かも解らなかったけれど、若し、予想が外れていなければ彼女がこのような表情をしているのは黒龍に関る事なのではないか、そんな気がした。
「言って、いなかったかしらね。私の龍は、……黒龍は、ある日、突然姿を消してしまったの。もう、三年も前になるわ。……其れは、兆候もなく突然のこと」
胸に手を当てて、遙か彼方の人を想うように眼を伏せながら一言一言丁寧に紡ぐ姿は、どれだけ黒龍を大切に思って居たのかがわかる。
大切だったのだろう。己の半身なのだから。其れが、突然失われてしまうと言う恐怖は……目の前で、白龍を失った自分にも良く解る。
その証明である逆鱗を服の上からそっと辿り、あの時の事を思い出すと言い様のない恐怖に囚われる。
けれども其れも一瞬のこと。
……続けられた彼女の言葉に……息を飲むことに、なるのだから。
「愛する人が、漸く結ばれた人が居なくなることが、こんなに辛い事だなんて、思わなかったわ」
その、言葉の意味に気付きたくは無かったと、何故だか思った。
彼女の告白は小さく、静かに続けられる。
「嘘をついてまで私、一緒になる許しを得たの」
聞きたくないよ、と遮ってしまえたら、どんなに楽だったのだろうか。
けれど、其れが出来なくて、胸に苦しいものが込み上げてくるばかりだ。
優しい人。
まるで全てを抱きとめてくれるような、母親のような優しさを持ったこの人の過去。
いや、過去とは言えない。
現在も深く胸に根付き、彼女を絡め取っている。
「私ね、どうしても忘れられないの。愛していたわ。――黒龍を」
そう言って微笑んだ彼女の瞳の奥には、哀しみと……孤独が静かに揺らめいていた。
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