比胡の真後ろまで気配を殺さずに近づいて行っても、比胡は人形に視線を向けたまま此方を振り返る事はない。
気付いていない……わけではないだろう。
ただ単純に気付かないフリをしているのだ。
私の事が嫌いだから。
そう考えると思わず手に力が篭る。
「……比胡」
呼びかけてみても、今は忙しいと言った態度で人形の関節球の調節をしていた。
私の呼びかけに一言の返事をすることもなく。
「隣、座るね」
だから私も返事を待たずに隣に腰掛けた。
どうせ返事を求めたとしても、断わられるのが関の山だろうから。
「…………」
流石に座るな、とまでは言わないのか。其れでも比胡は私を鬱陶しそうに一瞥してみせた。
「……人形」
「葦切だ」
即座に訂正を入れる辺りに、人形に対する思い入れが窺われる。
「葦切、具合悪いの? 其れともメンテナンス?」
メンテナンス、と聞いた瞬間比胡は不可解そうな表情をしてみせたが、何となくニュアンスで伝わったのか其の単語の意味を問う事は無い。
「――異常はない」
言い切ると葦切を傍らに置いてから左手を動かし、右手の甲を撫でるようにする。
すると四散するように葦切の姿は掻き消え、常と同じように比胡の指には指輪が嵌まっていた。
其の、髪の色を思わせるような石のついた指輪が。
無言で立ち上がろうとする比胡の服の裾を掴み、立たせないようにする。
こんな事をすると振り切られても仕方が無いと思うが、比胡はそうしない。
いや、出来ない。私を引っ張るだけの力が足に入らないのだから。
比胡が余り足が丈夫でないことは本人語らずとも周知の事実。
其処に付け入るのは卑怯で最低な行為だと思ったけれど、言葉で引き止めてもきっと彼は留まってくれないだろうから。
必要以上に私と会話をする気が無いだけなのかもしれないが。
「……比胡は、如何してそうやって私と話すの避けるの?」
渋々と言った感じにその場に留まる比胡に、手を離せと言われる前に問いかける。
真っ直ぐに、彼を見詰めて。
どんなに痛烈な言葉が返って来ても泣かないように、心を強く持ちながら。
だけれど、そんな私の覚悟を余所に返って来たのは予想外の言葉だった。
「話してたとて何になるか。私を笑いの種にする為か?」
至極不愉快そうな顔をして比胡は言った。
だけれども私は何故比胡がそういった事を言うのか理解できない。
「何でそんなこと思うの? 私、そんな事ちっとも思ってないよ」
原因がわからないからこそ言葉選びも慎重になる。
実際にそんなこと思ってもみないことだったから、否定する気持ちだけは本当。
だけど、比胡はそんな私の台詞にも鼻白んで見せるだけ。
「知らぬと思ったか。此の醜き身体の事を天の朱雀と共に嘲笑っていたのではないのか? ――態々人の過去を調べようとしてまで。所詮私は余所者、疑うのは詮無き事だがな」
俄かに自嘲気味に比胡は笑い、言ってのける。其の中に少し、哀しげな色が滲んでいた。
比胡がそんな顔をするだなんて信じられなかった。
其れと同時になんて顔をさせてしまったのだという悔恨の気持ちも生まれてくる。
今までの態度も全て足が悪いと言うコンプレックスを覆い隠すものないのだと思える程に……彼の言葉は、衝撃的だった。
「嘲笑ってたりなんかしてない。ヒノエくんだって、本気で比胡を疑っていたわけじゃないよ。だって、比胡は私達の大切な仲間じゃない」
自分で言っていて何て白々しい言葉なのかと思った。
私だったら、こんな言葉を素直に信じられる筈もない。
言い訳としか聞こえない。
「仲間? 口で言うだけだろう」
矢張り出るのは拒絶の言葉で、私は悲しくなった。
でも此処で引き下がるのは彼の言葉を認めるのと同義。
「私は比胡の事好き」
だから、本当の気持ちを告げる。
其れでも比胡は信じないと言う風に訝しそうに目を細めてみせるのだ。
「そなたが私の事など好きになる筈が無い。其れは思い違いだ」
いっそ苦痛とでも言うような表情で以って、比胡は言い放った。
私に想われる事がそんなに厭だと言うの?
唇を一度噛みしめて、涙を堪えて。……其れでも私は言葉を紡ぐことを止めない。
「……思い違いなんかじゃない。私は比胡は好きだし、比胡にも私を好きになって貰いたい」
「だから其れを思い違いだと言っている。好きになって貰いたい、だと? 白き龍の神子、そなたが何故私の事が気にかかるのかを当ててやろうか」
それ見たことかと言う風に、比胡は私を蔑むように口を開く。
誰も信じないと高らかに宣言するかの如くの様相で。
「そなたは誰にも嫌悪の情など向けられた事など無く、人に嫌われる事に慣れて居らぬ。だからこそ私がそなたに辛く当たるのが厭なのだろう、嫌われたくないのだろう。誰からも嫌われたくないと言う愚かな感情で私に構うのではないか? ……随分と身勝手な話だ」
哀しすぎる言葉は私の心と共に彼自身の心を抉っているのではないだろうか。
ぎゅ、と比胡の服を掴む力を強め、私は懸命に訴えかけようとした。
「どうして信じてくれないの!? 私は……ッ!」
そんな私の言葉を遮るように、不意に比胡の手が私の顔に伸びる。
細くしなやかな手が口許に触れ、私に此れ以上言葉を紡がせないようにした。
彼の手はとても冷たくて――唇の横に当たる指輪の方が温かいのではと思う程。
「そなたには解らんよ、白き龍の神子。愛し愛され……恵まれた運命に生まれた、そなたには――」
低く、囁くように呟かれた台詞は悲嘆に暮れたものだった。
彼がどんな生い立ちを抱えているかなんて、知らない。
……だからこそ私は何も言えぬまま、服を掴んでいた手を緩めるしかなかった。
其れと同時に比胡は立ち上がり、其の手が私の口から外れる。
表情も、感情すらも失くしたような顔で比胡は私を見下ろし、言った。
「私はそなたが嫉ましい」
――其の言葉を最後に、比胡は背を向けて私の傍から離れ行く。
片足を不自由そうに引き摺りながら。
其の姿が見えなくなった後も私はその場に座り込み動けぬまま。
ただ、最後に比胡残した言葉が、私の頭をぐるぐると回っていた。
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