■肖え物
 薄い膜を張ったかのような空。
 夜空に瞬く星が見えぬのは、一重に天気の所為だろう。
 本来であれば白い筈の雪に蒼い影が落ちているのが克明に見えるのだろうに、今宵は無かった。
 月も見えぬ闇夜というのに泰衡はまるで隠れた月を相手にするようにひっそりと手酌で酒を飲んでいた。
 空虚なる空に、果たして何を見ているかは測り知ることは出来ない。
 小さく床が軋み、招かれざる来訪者があったことを泰衡は音で知る。
 それが誰なのかも、声を聞かずとも知っていた。
「泰衡様、こちらにおいででしたか」
 落ち着いた、上品ともすらとれる銀の声が縁に流れる。
 しかし泰衡はそちらに目を向けることもせず、低い声で言葉を発した。
「支度は良いのか?」
 何の事を示しているのか解っているはずなのに銀は緩く首を傾けた。
「何の支度で御座いましょう」
 不思議そうな素振りをしてみせながら、言葉が重ねられる。
 銀の様子に、泰衡は僅かに苛立ったように床を爪弾いた。
「明日、神子殿と共にこの世界を発つのだろう」
 銀は泰衡の言葉を受け、俄かに表情を曇らせた。
 些細な変化なれど、それを見れば良い方向では無かったと思うのは必死。
 だが、生憎と泰衡は外に視線を投げたまま、銀の様子に気付く風でもない。
「そうしたかったのですが…きっぱりと振られてしまいました故」
 今も尚胸に甘い痛みを残しているかの如く、胸に手を添え呟くように言った。
 それは泰衡にとっては予想外の返答であり、思わず銀を返り見た。
 其処には未だ焦がれる気持ちはあるが、もう既に想いが叶わぬことを悟った男の顔がある。
「神子様は、私に対し特別な感情を持っておられませんでした。兄上を死に追いやったのは自分であるから、憎んでくれて良いと……そうおっしゃったのです」
 想いこそすれ、憎むなどと言うことは出来はしないのに。
「――恋に破れた愚かな男でも、泰衡様の下で働く事を許していただけますか?」
 此処に残り生きる覚悟はとうに出来ているかのようにはっきりと言葉か紡がれる。
 誓いとも言える銀の声に、泰衡は一度ゆっくりと目を伏せて溜息を吐いた。
「好きにしろ」
 興味を失ったようにすいと視線を逸らし、ぐいと杯の酒を煽った。
「……叶う事ならば、神子様には平泉に残って頂きたいものです」
 ならばそう請えば良いだけの話。
 そう言おうとしかけた泰衡の言葉を遮るように、銀はただ続けた。
「泰衡様が神子様をお引止め下されば、きっと神子様は残って下さるでしょう」
 全く以って理解し難い銀の言葉に、自然、泰衡の眉は深く寄った。
「……何?」
 寝ぼけて居るのかと視線を訝しげに向ける。
 しかし、そのように見られていても銀は泰然と其処に立った儘だった。
「恐れながら、神子様は常々泰衡様の事を気に掛けておられました故」
 緩く目を伏せて銀が紡ぐ。
 その発言を下らないと言うかのように酒を傾けものの、杯には数滴しか落ちなかった。
「取って参りましょうか?」
 銀の台詞を手で制し、立ち上がる。
「酔いを醒ましてくる。供はいらん」
 静かに頭を下げた銀を見下ろしながら、其のまま屋敷の中から出た。
 月も星も足元を照らさぬ闇夜は歩き易いものとは言えないだろう。
 だが、だからこそ歩くべきなのだとも歩き始めた男は思った。
 男が歩む道は光差さぬ影の道。
 正しいと信じた道を進めども、それが万人に受け入れられぬものだと云う事も同時に解っている。
 光無き、光亡き道を行く事を暗示しているような夜。
 時刻が回って居る為か人の気配はない。
 敷地内を出、ゆるりと散策をするように早さを緩め歩いていた。
「――?」
 不意に人の気配を感じたように泰衡の視線が動く。
 夜も更けた時刻に出歩く者は少なく、瞬時に命を狙う刺客かともすら思い僅かに身構える。
 しかし、泰衡が見た人物は、其れとは全く異なる者であった。
「……神子殿」
 自然、ふっと体が弛緩する。
 命を狙われ居ても無理はないと思ってはいたが、実際危険を思うと無意識のうちに体が強張っていたようだった。
「あ、泰衡……さん」
 声を掛けられて漸く気付いたのか、僅かに笑みのようなものすら浮かべて望美は泰衡を見た。
 その表情の変化に泰衡の眉が寄る。
 自分に対し好意的な感情と持っている筈がないという思いが、そうさせた。
「斯様な時刻にこんな場所で、如何なされた」
 幾ら戦が終わったとは言えこのような時間に女人が出歩くのは不用意過ぎると窘めるように泰衡の口から言葉が紡がれる。
 叱責された事が最初解らずに、緩く瞬きを繰り返していた望美も、直ぐにその意図が理解できたのか申し訳無さそうに口許だけで笑ってみせた。
「少し、眠れなかったんです」
「……だからと言って、一人で出歩くのは感心出来る事ではない」
 眉尻を下げながら、少しだけ困った素振りで垂れた髪を耳にかける。
「私、そんなに心配して貰う程弱くありませんよ」
 心配など別にしていないと、男は言いかける。
 けれど何故かその時に、先程の銀の台詞が頭に甦った。
 ――神子様は常々泰衡様の事を気に掛けて――
 有り得ないのだと、そう思う気持ちが胸に込み上げて来る。
「確かに。源氏の神子の名はこの平泉でも良く通っておられた。源氏を勝利へと導く戦女神だと。源氏の神子が居る限り、負けは無い、と…。なれば、余程の自信がおありだろう」
 態と皮肉めいた口調で紡ぐ。
 そうだ。己の信念の為に自らの父でさえ消そうとする程の男。
 そして、その事実を、この目の前の女は知って居ると言うのに。
「……そう言われるのも、当たり前ですよね。あの時の私には勝てるって、確信がありましたもの。だって、ずるい事をしていたんですから」
 父は死ななかった。
 一命を取り留めて尚、何が起こったかも口外しなかった。
 だからこそ男は、甘んじて今の地位に居られる。
「ずるい事……?」
 望美は、緩く手を持ち上げると白龍の逆鱗にそっと触れた。
 其れを見て、男は悟る。
 元より白龍の逆鱗には特別な力があると知っている故に、朧げながらも女の言わんとすることを察する事が出来た。
「……それに何より、私は強くなり過ぎたのかもしれません」
 此の平泉の地でも、源氏の神子の噂は良く聞いた。
 源氏の神子の戦場を舞う姿は華のように艶やかであるのに、獣のように強かで、その剣によって散らされた怨霊や平家の兵は数知れずと。
 まるで百年もの間戦い続けてきた者、或いは異形のモノであるかの如く、源氏の神子は強い、と。
「――だから帰られるのではあるまいか?」
 静かな問い掛けは、夜の闇の中に良く響いた。
 言葉の真意を測り得ぬように、望美は小首を傾げてみせる。
 その仕草に言葉が足りなかった事に気付いたのか、泰衡は再び唇を開いた。
「平清盛も、茶吉尼天も居らぬ今、最も力を持っているのは神子殿だろう。なればこそ、その力を利用しようとする者が居るやもしれぬ。  逆に、その力を疎んじて、存在を消そうとする者が居ないとも限らない」
 そして、結局は人間である以上、何時までも無事で居られる保証は無い。
 言われた言葉に漸く理解を示し、女は哀しげな笑みを作り上げた。
「私、そんな大した存在じゃないですよ」
 自分の力を認めて尚、そう信じていたいかのように望美は言い放つ。
 けれどもその気持ちを見透かすように、泰衡は容赦をしなかった。
「神子殿の力は驚異となる」
 断言された言葉を否定できず、緩々とただ惰性的に首が横に振られた。
「……私は、誰かに恐れられたかったわけじゃない…!」
 そう唇を噛み締めながら紡がれた言葉は、悲鳴のようだった。
 思いを抱えきれぬようにその場を去ろうとした望美の腕を、泰衡の手が掴む。
 其の力は思いの外強く、望美は振り払う事も出来なかった。
「……此の地に留まられる気は、ないだろうか?」
 引き止める言葉が、男の口から咄嗟に漏れた。
「……え……?」
 そんな事を言う筈がないのだと思い込んでいた故に、望美の瞳からはありありと驚愕の色が見える。
 様々な事が頭を駆け巡り、唇を震わせながらも漸く切れ切れに言葉を紡ぎ出す事が出来た。
「……泰衡さんは、私の力を利用する心算ですか?」
 先程男が紡いだ台詞を、望美は覚えていた。
 其れ以外に泰衡が自分を引き止める理由は無い、と。
「……そうかもしれん。無理に引き止める心算など無い故に、断ってくれて構わない」
 諦めの良すぎる答え。
 だが、これが男の本心なのだろうと悟り、其れでも尚決めかねるかのように表情は曇った。
「力の無い私は、必要無いんでしょう?」
 何れかは白龍の神子としての力も消えてしまう事を知っていた。
 途中でもう必要ないと切り捨てられるのは、辛すぎる。
「否。……神子殿は聡い。共に平泉を護って行って頂きたいと願った」
 長い、長い沈黙が落ちた。
 男と女である二人は、人気の無い暗い場で見詰め合う。
 しかしそこには一切の甘さは無い。
 あるのは真正面からの駆け引きのみ。
 どれ程の時間が経った頃だったか、ふ、と小さな吐息が女の口から漏れ出た。
「良いですよ。…泰衡さんは、平泉を護る為だったらどんな事でもしそうだから……其れを見張らなくちゃいけない。……だから、私……残ります。貴方の傍に」
 男は、まるでその答えを知っていたかのように動じなかった。
「感謝する」
 ただ一言それだけを言うと、するりと掴んでいた手を離したのだった。
「――随分と長居をしてしまった。引き止めてしまい申し訳無い。……送って行こう」
 引き止めたという言葉が、現状の意味を指すのか、はたまた此の地に引き止めた事を言っているのかは解らなかった。
「皆にはもう元も世界に帰ると言ってしまったので、泰衡さんからも、皆に説明してあげてくださいね」
 目を背けて置きたかった面倒ごとについて釘を刺され、矢張り侮れないと泰衡は苦く笑う。
 一歩、足を動かした所で女の方を振り返って手を差し伸べた。
「足元が見えん。転ばれでもしたら後々面倒だ……手をお貸ししよう」
 その口振りに、思わず望美は苦笑してみせた。
 そうして素直に手も差し伸べられない人物だと、此の時しっかりと悟った。
「泰衡さんこそ、転ばないで下さいね」
 細く小さな手を骨ばった手に重ね、引かれるようにして隣を歩く。
 自分よりも幾分も頭の位置が下にあるのを横目で確認し、男は女の歩調に合わせゆったりと歩き出した。

 二人が交えるのは愛ではない。
 ただ、共に此の平泉に在ろうとする想い。
 二人が交わすのは口付けなどではない。
 ただ、決して裏切ることはないのだという甘い契約。
 後ろに誰かが控えるのではなく隣に誰かが立つと言う現実に、直ぐには慣れないだろうと男は思った。
 しかし、それもその内当たり前だと感じる日が来るのだろう。
 悪くない、と。
 密やか過ぎて誰にも悟られぬ程に男は口許を緩めたのだった――。




肖え物(あえもの)…(幸福になるための)あやかりもの。
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