■傍にいたいという願い 6
 ふわふわと心地の良い風が頬を嬲る。
 空気も、風も、匂いも、全部が優しくて、伏せた目をこのまま開けたくないような、そんな気にさせられる。
 こんな世界がずっと、続けば良いのに。
 平和で温かくて、泣きたくなるように優しい世界。
 其れに身を委ねるように、再び眠りに落ちたくなる。
 嗚呼、でも駄目だ、起きなくちゃ。
 俺を呼ぶ声がするんだ。未だ、俺は誰かに呼ばれているんだ。
 其れに応えなくちゃいけない……いや、そうじゃない。
 俺だって、  名前を呼びたいんだ――。

「――ミ、もう、ノゾミったら」
 覚醒の間際に、女性独特の甘い声が耳に掛かる。
 瞬時にハッとなり身を強張らせはしたものの、直ぐに其れが誰の声であるかを察し、体の緊張を弛緩させた。
 そう、彼女の手だったのならば、この体を揺すられる感覚も心地良い。
「……おはよ、朔」
 起きて直ぐに瞼を押し上げるのは結構な労力だ。
 其れでも彼女の顔を見たいが為に、無理矢理にも押し上げる。
 薄らと開いた視線の先の朔の顔は、少しだけ呆れたような顔をしていた。
「おはようの時間じゃないわ。幾ら今日は予定が無いからって、もうお昼よ」
 まるで子どもを怒る母親のようだと思い、苦笑する。
 此処数日で、様々な事があった。
 星の一族の元を訪れたり、男であるのを暴露出来ぬ故に九郎の許婚扱いされたり、将臣があの子どもと行動を共にする為に離脱したり――。
 挙句の果てには、先生と剣を合わせさせられた。
 本気ではないと知っていながらも、あれには驚かずにはいられなかった。
 ただ、俺が男であると知った時には、些か驚いた様子を見せていたが。
 ――先生でもああやって驚く事があるんだな。
「ほら、ノゾミ。何時までも布団に入って無いで顔を洗っていらっしゃいな」
 朔の言葉に促されたわけではなかったが、実際に少し御腹が空いている。
 上体を起こしかけて、ふと悪戯心が沸き、両腕を伸ばした。
「起こして?」
 其れは甘えで、少しでも構って欲しかったからかもしれない。
 案の定朔は、仕方なさそうに微笑みながら、ほっそりとした綺麗な指先を俺の手に絡める。
 そうして、少しだけ力が込められたのを感じると、余り負荷をかけぬようにと体に力を込め、立ち上がる。
 真っ直ぐに立った所で、少しだけ眩暈がして、自然、朔の肩に頭を凭れるような体勢になった。
「ノゾミ?……大丈夫?」
 嫌がる素振りも無い、ただ気遣わしげに問い掛けてくる朔の様子に、微苦笑を洩らしながら、緩く頭を上げる。
「ん、朔、良い匂いがする」
 本当は心地良くて、夢の中に居る時みたいにずっとそうしていたかったのだけれど、其れは出来ないと知っていた。
「良い匂いって――。……ノゾミ、あなた……少し背が、伸びていない……?」
 彼女は恥ずかしそうな顔になりかけて、不意に真顔になる。
 言われてみれば、此の間よりも少しだけ、朔と目線がずれている気がする。
 今まで止まっていた時間が、動き出したのだろう。
 其れは単純に精神的な問題で、それでいてとても大事なこと。
 成長しようと思える心が、胸に宿っている。
「伸びた、かもね。俺、成長期だもん」
 肯定する言葉の語尾はやや子どもっぽく、朔は微笑ましそうに笑みを浮かべる。
 失敗したな、と思いながらも、そうやって笑ってくれるんなら良いや、と思ってしまうのだ。
 繋がれたままであった手を、朔がするりと解く。
 温もりがあった場所に風が当たると、何故だかとても冷たくて、寂しかった。
「……ね、朔」
 不意の呼びかけに、不思議そうに首を傾げてみせる姿は何時もよりも幾分か幼く見えて、かわいらしい。
「折角だから、後で何処か、散歩に行かない?」
 多分、春の京に居られるのは、後少しだけ。
 この心地の良い日を逃したくなかったから、誘い掛けた。
 既に予定が入っていたのならば、無理にとは言えなかったけれど、朔は直ぐに微笑んで「勿論よ」と言ってくれたのだった――。
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