第八話:自覚
今日も比胡を捜してしまう。
最近の彼は、私の目から逃れようとするように姿を見せない事が多かった。
――……通りです。ですが……――
――其れは……とでも? 良く言う――
邸を歩いている微かに聞こえた声に耳を澄ませる。
此の声は、間違いない。
弁慶さんと比胡が会話を交わしているのだ。
私は導かれるように其方の方向へと歩き出していた。……その、冷たい言葉の応酬に気付かずに。
「……何故君は……、いえ、もう止めましょう。僕は此れで失礼します」
早口に言い切り、弁慶さんは比胡との会話を切り上げたようだった。
やけに鮮明に聞こえたかと思うと、少しもしないうちに弁慶さんと曲がり角でぶつかりそうになる。
弁慶さんの向こうに見える縁側に、比胡があの人形を傍らに置いて座っているのが見えた。
「望美さん……」
弁慶さんに名を呼ばれた事で我に返り、すみません、と謝罪を入れようとする。
だが、その前に彼の手が私の腕を強引に引っ張っていた。
「え? 弁慶さ……」
戸惑いを隠せず、声を掛けようとするが私は直ぐに口を噤んだ。
――顔色が悪い。
「そんなに時間は取らせません。……彼のことで、少し」
声を潜めるように紡がれた言葉。私は其れを否定するわけも無く、其の侭弁慶さんに腕を引かれ、比胡より遠ざかった。
「弁慶さん、顔色が悪いです。具合でも、悪いんですか?」
私の問い掛けに、弁慶さんは腕を掴んでいた手を緩く解いた。
そして首を横に振り、曖昧な様子に笑ってみせる。
「いえ、具合は悪くありませんよ。すみません、気を遣わせてしまって……」
とてもそんな風には見えないのに、弁慶さんはそう言い切った。
更に言葉を重ねようとする私に対し、其れ以上の言及をさせまいとするように弁慶さんは口を開く。
「望美さん。君が真実彼のことを想っているのなら、僕は其れでも良いと思っていました。君ならばあの孤独な人を救えると。……けれど」
優しい声音が、不意に硬いものに変わる。
“けれど”という接続詞から続くのは、きっと、悪い意味の言葉しかない。
聞きたくは無くて、言われたくは無くて、私は制止の声を出そうとしたけれど、其れは間に合う事が無かった。
「君は彼に近づかない方が良いのかもしれません。彼は余りにも計り知れない。……恐らく、繊細な君は傷ついてしまう」
辛そうな顔で言い放たれたのは、私の心を冷やすのに十分だった。
「……え?」
如何言う事ですか。
そう問い掛ける言葉は、声にならなかった。
何故いきなり弁慶さんがそんなことを言い出したのか、私には理解出来なかった。
「彼は余りに知りすぎている。そして……他人を遠ざける為なら、人の罪さえ暴く事を厭わない。君にそんな罪はないのかもしれない。けれど、……比胡は」
一旦、言うのを躊躇うように、弁慶さんは言葉を切った。
「君を、頓に嫌っていると、言っていた……」
……そんなこと、知っていた。
言われなくったって、見ていれば解る。
理不尽だと思うほどに比胡は、私に対する態度が酷いのだから。
嗚呼、でも。
「比胡が、嫌いだって、言ったんですね……私を」
実際にこうして、人伝ながらに聞かされるだけでも、とてもつらくて。
涙が滲んできそうになるのを、必死で堪えるしか出来ない。
「君を悲しませてしまったのならすみません。ですが、此の侭では君は傷つき続けるしかなくなってしまう」
そう。此れは弁慶さんの優しさだ。
今此処で私を悲しませるのと、此れから先私が傷つき続けるのと、どちらが辛いかと判断しての忠告だったのだろう。
如何してそんなに嫌うの。
私の知らない、違う時空の私が貴方に酷い事をしたとでも言うの?
嗚呼、そんな筈はない。そんな筈はない。
だって比胡は、逆鱗なんて持っていない筈なんだから。
「望美さん、君は優しすぎる。……時には何かを切り捨てる事も、大事なんです」
諭すような弁慶さんの言葉が、私の耳を通り過ぎる。
切り捨てる……何を? 比胡を……?
嗚呼、そうだ。
そうしてしまえばもう此れ以上思い悩む事も無いのではないか。
其れなのに、如何して躊躇っているのだろう。
「そう、ですね……私、……」
肯定しようとする声が震えていた。
まるでその言葉を口にするのを、体が拒絶するように。
本当にそれでいいの? 私の中の私が言う。
嫌わないで欲しい。もっと一杯話しをして欲しい。私に向けて笑って欲しい。
救ってあげたい。……私を、好きになって欲しい。
――良く無いよ。
「駄目です。……切り捨てられないみたいです」
好きになって欲しいと思うのは
「私、比胡に笑って欲しい」
私が彼を、好きだから。
いっそヤケクソみたいな笑顔を浮かべて言い切ってみる。
すると何だか胸がすーっとするような、不思議な感じがした。
自分の事を嫌いな男を好きになるだなんて、如何かしてると思うのに、如何してこんなに気持ちが良いのだろう。
私の顔を見た弁慶さんは、少しだけ言葉を失ったように口を噤んだ後に、緩々と微笑みを浮かべてみせた。
「君は、強いですね。……でしたら僕はもう何も言うことはありません。……頑張って下さい」
送り出すように、弁慶さんは笑ってくれた。
多分弁慶さんが言ってくれなかったら、私はこのまま自分の気持ちを認める事が出来ないままでいただろう。
「有難う御座います弁慶さん!」
久し振りに浮かべた気がする、心からの笑顔。
弁慶さんへの感謝の気持ちでいっぱいになりながら、私は比胡の方へと歩き出した。