■名を継ぐ者 10
 どれ位の時間部屋の前に控えていただろうか……。
 いや、時間にしてみると其れ程長いものではなかったのかもしれない。
 部屋の中で師と男が交わす会話は聞こえぬ程に小さく、静かなもので、聞き耳すらも立てられない。
 ぐ、と膝を抱える手の力を強めた所で部屋の扉が開いた。
 仰ぎ見ると、其処には泰親が立っている。
「天狗が呼んでいるよ。入りなさい」
 あたかも最初から其処に座り込んでいると知っていたかような態度に、聊かの気まずさを感じながらも立ち上がり、男の後を追うように部屋へと入った。
「――天狗、本当に良いのか?」
 男が師に問う。
 臥せったままの師は、ただ顔に笑みを浮かべて緩く頷いてみせた。
「お前が先に言い出した事だろう。……私は信じるさ」
 其れは師の男に対する信頼の言葉か、耳にやけに響いて聞こえる。
 男は師と一定の距離を保つように立ち止まり、ただ静かに師の傍へと寄れと促す。
 言われなくてもそうする、と何処か捻た気持ちを抱えながら師に近寄ると、師が其の手に何かを持っているのが見えた。
 あれはこの庵にはなかったもの……男が、この庵に来る前に邸から持ち出した小瓶だ。
「……此れからはこの瓶に入っている液体を私の食事に混ぜてくれないか」
 ゆるりと見せるように持ち上げ、其れを差し出してくる。
 呪を抑える薬なのだろうかと思い、師の傍に膝を着き、受け取ろうと手を伸ばす。
 しかしひとつ気掛かりなことがあり口を開いた。
「此れは、師のお体を治してくれる薬ですか」
 そう口にした時、師の顔が僅かに歪んだのを見逃さなかった。
 嫌な予感がして瓶を受け取ろうとした手が止まる。
「――リズ。此れは怨霊の力を押さえ込むための……私の身体を死なせる為の、“毒”だ」
 ――毒。
 その単語に頭が真っ白になり、咄嗟に言葉が紡げない。
 其れを解っているかのように師は静かに言葉を重ねた。
「話は聞いておろう? 此の侭では私は怨霊と化し、暴虐の限りを尽くすだろう。……自刃したとて、其れは変わりない。此の怨霊を押さえ込む法はただ一つ――陰陽師が作った呪いが掛かった毒でじわりじわりと命を奪って行くしかない。それが――」
 師の言葉を、最後まで聞くことはなかった。
 勢い良く立ち上がると身体を反転させ、泰親の胸倉に手を遣り掴み掛かる。
 口元を覆ったままの布が、大声を出す事を引き止めるようにピンと伸びたが、そんなことを気にしてはいられなかった。
「何が“救ってみせよう”?! お前はただ師匠に毒を与え殺そうとしているだけではないか! 死ぬ事が救いか? 怨霊になりさえしなければ死んでも救われるというのか? お前がしている事は殺人以外の何でもない!」
「リズ、止めなさい。私が選んだことだ」
 窘めるような師の声は耳に届いていた。
 しかし、如何にも抑えられない。
 ぐ、っと拳を握り締めて男に殴りかかろうと、拳を持ち上げた。
「リズヴァーン!」
 強い怒気を孕んだ叱責が飛ぶ。
 ぎゅ、と唇を血が出る程に噛み締めながら、震える拳を下ろし、掴んでいた男の胸倉を離した。
「……もう此処へは来るな! その汚らわしい顔を二度と見せるんじゃない!!」
 掴まれた事で乱れた着衣を整えながらも、男は苦く笑ってみせる。
 怯えた様子も、悔恨の様子もないその態度に、またふつふつと怒りがわいてくるのを感じた。
「言われずとも、もう来ないよ。――だが、鬼子。お前はきっと、何時か私を訪ねて来る事があるだろう……」
 確信に満ちた声で言われたとて、誰が訪れるものか、と此方は決意を新たにするだけ。
 男は師に軽く別れの挨拶を告げると、緩やかな足取りで庵を去った。
 シン、と静けさが師との間に落ち、居心地が悪い。
「……リズヴァーン」
「――申し訳ありません、師匠」
 あの男の言った事に納得したわけではなかったが、己の行動も褒められたものではなかったと自覚している。
 此の謝罪は、師への謝罪だ。
 此れで最後の邂逅となるかもしれなかったというのに、旧知の者を己の一存で追い返してしまったことへの。
 更なる叱責を覚悟していたが、師の言葉は優しく……そして、残酷なものだった。
「お前は優しい子だ。……リズ、私は決断した。此の生を永らえ皆に迷惑を掛けるよりは怨霊を封じ込めたいと……。如何か私の望みを叶えておくれ、……此れが最後で良い、私の為に決断しておくれ……」
 そんな風に言われてしまっては、もう、如何する事も出来ないではないか。
 其れを決断するしかないではないか。
 ……泣きたい程の悲しみが胸を締め付けながらも、差し出された小瓶を、手に取った……。

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