■知らなかった誕生日
 心のかけらを失って、迷宮を解き、今度こそ本当に日常を取り戻した。
 違うのはただひとつ。
 この世界に、未だヒノエくんが留まっていると言う事――。


 携帯の着信音が自室に響き、誰からだろうと手を伸ばし、液晶を見遣る。
「……あれ?ヒノエくん?」
 ぱち。と瞬きをして表示された名前を目で追い首を傾げた。
 4月1日、12時より少し前。
 春休み中ではあるが、今日は約束はしていなかったように記憶している。
 如何したんだろうと通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。
「もしもし、ヒノエくん?」
『嗚呼、出てくれて良かった。望美、今から空いてるかい?』
 実際に聞くよりも少し遠いような感じのする電話の声。
 目の前に居ない人の姿を思い浮かべ、電話越しでは見えない筈なのにひとつ頷いてみせる。
「大丈夫だよ」
『なら今から隣に来てくれないか? 野郎ばっかで華がなくて』
 電話の向こうで『お前の家じゃないだろ』という呆れたような譲くんの声が聞こえる。
 現代に暫く残ることに決めてから、将臣くん達の親が戻って来るということもあり、ヒノエくんは別に部屋を借りて一人暮らしをしていた。
 ……どうやって生計を立てているのか、とか。そんな事は良く解らないけど。
「んー、何か良く解らないけど、行くね」
『了解。桜の精の如き姫君をお待ちしよう。……電話を切るのが名残惜しいな、こっちに来るまで会話でもしてるかい?』
 時間にして其れ程かからない距離なのに、そんな事を言うヒノエくんは相変わらずだと思い、笑った。
「そんな事ばっかり言って、もう切るよ? 一寸くらい逢えない時間も味わうもの良いんじゃない?」
『っと、姫君も言うようになったねえ。ま、それじゃ仕方ないか。早くおいでよ』
「うん」
 そこで会話は終わった筈なのに、向こうから通話を断ち切る音は聞こえない。
 何時もそう。先に通話を解除するのは此方から。
 こういうところがマメな人。
 予定外に逢えるということに内心の喜びを隠す事が出来ず、逸る気持ちを抑え、簡単に身支度を始めたのだった。


「おじゃましまーす」
 お隣の玄関から上がると、リビングの方から美味しそうな薫りが漂って来た。
 そういえばお昼はまだだった。と導かれるようにリビングへと足を向ける。
 リビングを覗き込めば、そこにはテーブルの上に置かれた、美味しそうな料理。
「…うわぁ、美味しそう! 如何したのこれ!」
「お気に召したようで何より。いらっしゃい、望美」
 悠々とソファに座ったヒノエくんが笑顔で私を出迎えてくれる。
 将臣くんも何故か「遅ぇよ」と文句を垂れながら迎えてくれた。
「ヒノエが作ったんじゃないだろ。……先輩、こんにちは」
 キッチンからまたまた美味しそうな料理の乗ったお皿を持って来ながら丁寧に挨拶をされる。
 私は譲くんの方を見て、料理を指差しながら問いかける。
「これ、如何したの?」
 問うと譲くんは曖昧な表情で笑いながら言葉を紡いだ。
「ヒノエがいきなり来て、今日誕生日だから美味いモノを食わせろ、って。兄さんは兄さんで食べる事には賛成してしまって……」
「そうそう。それで是非望美にも御相伴願いたくてね。さ、オレの横に座りなよ」
「お前が座らねぇと飯が始まんねぇだろ」
 通りで先ほど将臣くんが私の事を「遅い」と云った筈だと妙に納得しながらも、何か、引っかかるものがあった。
「……え、ちょっと待って?」
 右手をあげ、残った手を額に当てつつ考え込む。
 これは誰のための御馳走?誰の誕生日?
 ヒノエくんの誕生日を知らなかった私は、この瞬間とても動揺していた。
 そう、現実と認めたくないと思ってしまう程に。
「き、今日がエイプリル・フールだから?! ヒノエくんって秋生まれじゃないの……?!」
 思わず叫ぶと、ヒノエくんが朗らかに笑ってみせてのける。
「嘘吐いてはないって。何で秋生まれって思ったか聞きたい所だけど……姫君はオレの誕生日、知らなかったのか……」
 途中から態と憂い帯びた表情を作り、此方の良心の呵責をついてくる。
 うう、こんな所は弁慶さんにそっくりだ。
「……なんかこっちの世界での服が秋っぽかったから……。ご、ごめんね……。あの、おめでとう……何か欲しいもの、ある?」
 今回ばかりは此方に比があるような気がして、しゅんと項垂れてヒノエくんの様子を窺った。
 すると、ぽんぽん、とヒノエくんが自分の隣を軽く叩き、席を促したので隣に腰を降ろした。
「勿論、お前だよ。――このままオレの部屋に行って一緒の褥に入ってくれるとサイコーなんだけど……」
 自然な動作で私の肩に腕を回し、引き寄せてから耳元で囁く。
 顔に熱が集まってくるのを感じながら、如何応えるかを考えあぐねている所に、微妙な振動が二人を襲った。
「……ヒノエ、誕生日おめでとう」
 やけに力の篭った譲くんの声が頭上から聞こえる。
 ふと見てみると頭を押さえ顔を歪めているヒノエくんと、光が反射しているのか眼鏡を光らせお茶のペットボトルを持って立っている譲くんが見えた。
「……どーも、ありがとう。……殴るのが贈り物かよ。男の嫉妬は見苦しいぜ」
 厭味な口調で返したヒノエくんに対し、譲くんはやけに飄々とした素振りで眼鏡を押し上げた。
「俺は料理を作ったじゃないか。何もしてないのは兄さんだよ」
「一緒に飯を食ってやってるっつーのがプレゼントってことで」
 話を振られても平然と返し、既につまみぐいを始めている将臣くん。
「……おいおい。オレの誕生日なのに先に食って如何すんだよ」
「細かい事は気にすんなって。お、これ美味いぞ。お前らも食えよ」
「もう将臣くんってば! 勧めてるクセに一人で食べすぎだよ!」
 もごもご食べながら喋る姿を見ると、本当にとても美味しそうに見えて私も手を伸ばした。
 ヒノエくんも、やれやれ。と言う仕草をしながら矢張り食べる準備を始める。
「……食べ終わったら、二人でどっか行こうな、姫君」
 食べる直前に向けられた誘いに、私は頷いて同意を示しながら心密かに決意をする。
 ヒノエくんと一緒に居たい。ヒノエくんと一緒に生きたい。
 此方の生活があるし、今直ぐに、と言うわけには行かないけれど……。
 其れでも私は、そう遠くない未来にヒノエくんとあの世界へと行きたいと願う。
 ……この言葉は、この決意は。
 ヒノエくんにとって嬉しいプレゼントとなるだろうか?
 そうであって欲しいと、唐揚げを頬張るヒノエくんの横顔を見ながら思ったのだった……。



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