第一話
――初めてその姿を見たのは一体幾つの頃だったのだろうか。
世の理も未だ良く解っていない、幼き日の事であったような気がする。
何故だか不思議な感覚が込み上げ、誰しもが寝静まった刻限に一人、そっと閨から抜け出たのは今でも鮮明に覚えている。
普段であれば静まり返った廊下を歩くことも、暗闇の中一人で居る事も怖くて怖くて仕方がなかった筈なのに、不思議とその時は逸る気持ちの方が勝っていた。
「……だれ? ここは、ちかてづいてはいけない、って……」
ひたり。
誰も居ない筈の廊下に、水色の長い髪を垂らした見知らぬ女性が顔を覆うようにして蹲っていた。
顔を見なくとも解る、己にとっては知らぬ人。
その人が場所は、……今となっては曖昧な記憶しか残らぬが、平家の中でも上に近い人の部屋。
病気に苦しんでいるが故に近づいてはならぬと言い含められていた部屋。
その人がこんな場所に居るのはきっと其れを知らぬからなのだろう。
だから、教えてあげようとして声を掛ける。
声を掛けられて漸く此方に気付いたように、か細い肩を微かに揺らすと、其の人がゆるりと面を上げた。
――青白い顔。頬を途切れ途切れに涙が伝い、ぽた、と廊下に落ちて黒い染みを作る。
泣き腫らして腫れぼったくなった瞼。
薄開きの唇からは今にも嗚咽が込み上げて来るようだった。
……幽鬼にも似た其の姿は、背筋を震わせるには十分なものであった筈なのに。
此の時見た此の人は、怖くなかった。
逆に、その余りにも哀れな泣き方に胸が揺さぶられる程。
「どうして泣いているの……?」
涙すら香ってきそうな程の不可思議な空間。
そっと手を伸ばそうとすると、其の人は怯えたように瞳を揺らし、涙によって既にしっとりと濡れてしまっている袖を胸元に当てる。
そうして、震える声音で――いや、実際には声となって出てはいなかったのかもしれないが――彼の人は、言った。
――何故、私が見えるの……?――
確かに、そう、紡いだ。
其の言葉の意味を理解する前に、伸ばした手が其の人に触れる前に、……彼女は、消えた。
否、正確に言えば“溶けた”というのが正しいのかもしれない。
パシャン……と乾いた空気に不釣合いな、其れでいて涙を流していた彼女には相応しい音。
水に溶けるように、其の人の形は崩れ、消えてしまった。
突然のことについて行けずに、おろおろとその場に立ち尽くしかけた時に、俄かに部屋の中から慌しい音が聞こえた。
「――様が! おおッ……!」
此の部屋に寝たきりになっていた要人を看病していた女房の声が木霊する。
人々の間に飛び交う声。
幼いながらも何か良くない事が起こったのだと察することはできた。
……けれど。
「……冷たい」
何よりも気に掛かったのは、あの人が零した涙。
床に落ちた水滴を探るように、そっと指を這わせると其処は確かに濡れていた。
其れは、彼女の姿が幻ではなかったことを示している。
――此れが、彼女……紗和との、初めての出逢い。
次に逢うのは、更に数年の時を重ねる事となる。
再び合間見えた紗和は、此の時とまる変わらぬ姿をしていた――。