■やわらかい風を浴びながら
暖かな風が吹いていた。
この地を初めて訪れたときはあんなにも深く雪が積もっていたのにとぼんやり考える。
雪は好きだった。
貴方と初めて出会った時も、雪は降っていたから。
雪が好きだった。
貴方の黒を直ぐに見つけられたから。
「雪、溶けちゃった……」
また冬が来れば見られるとわかっていながらも、残念でならなかった。
また雪が降らないかと、屋敷の庭に出て空を仰ぐ。
だけど、空には雲が気持ち良さそうに流れているだけだった。
軋む板張りの音に、誰かが廊下を歩いていることが知れる。
特に気にしていなかった足音が、途中で止まった。
「神子殿……何をやっておられるか?」
止まったからには知り合いだろうとは思っていたけれど、一番予想外な人だった。
……そして同時に、一番嬉しい相手だった。
「雪降らないかなぁって思って、空を見てたんですよ、泰衡さん」
会えた事が嬉しい、と全面的に押し出すことも恥ずかしくて、ちらりと泰衡さんを一度だけ見ると、再び上空に視線を戻した。
「雪……?」
どうせまた突拍子もないことを考えていると思っているに違いない。
それを思うと何だか悔しくて唇を尖らせてしまった。
むくれた私の様子に気付いたのか泰衡さんは僅かに苦笑いをしてみせる。
「神子殿は雪がお好きなようだ」
呆れたように言われたことがまた悔しくて、素っ気なく「そうです」と答えた。
「泰衡さんは雪、嫌いなんですか?」
そんな話の流れになるとは思っていなかったのか、泰衡さんは意表を突かれたように幾度か瞬きをした。
そうして、先程までの私のように気持ち良い色をした空を見上げたのである。
「考えたこともなかったな。雪とは、在るのが当たり前だと思っていたから」
平泉の地を出、別の土地に住むことのない男の言葉は、きっと本人が思っている以上に侘しさを感じさせる。
平泉を愛しているが故に半永久的に此処に縛られる、それが彼の生き方なのだと。
そして自分は、そんな男の傍に居たいと思った。
「雪……いや、冬が良いと思うか等は良く解らないが、春は好ましいと思える」
続け様に泰衡さんが言った言葉に、私は驚きを隠せなかった。
こんな顔をして春が好き、だなんて、似合わないと心底思ってしまったから。
「……春、好きなんですか?」
その驚きが伝わってしまったのか、ムッとしたように泰衡さんの眉が寄る。
「寒い地にとって春は待ち遠しいもの。何か可笑しいか」
仏頂面なのは何時もの事だけれど、今回は殊更厭そうに見える。
「可笑しいというわけではないですけど、似合わないなあ、って思って」
其れを可笑しいと言っているのだ、とそんな顔を作り、泰衡さんはそっぽを向いてしまった。
こんなときの仕草がとても子どもっぽくて、可愛いとすら思ってしまう。
其れを素直に言うとまた拗ねてしまうだろうから、決して口には出さないけれど。
「……私も春は、好きですよ」
其れは本当。
寒いからと言って寄り添える冬も好きだけれど、暖かい空気を頬に受け、並んで歩ける春が好き。
「……嗚呼、神子殿に春は良く似合うでしょうからな」
自分と違って、と言わんばかりの態度に噴出しかけてしまった。
確かに彼の黒は、春の柔らかな陽光の下では少し似合わないけれど。
でも、真っ白な雪の中に居るのと同じ様に、春色の中で彼は見つけ易いのだろうから、私はそれで良いのだと思う。
天から降り注ぐ光を全身に受け、大きく深呼吸をした。
「泰衡さん、お花が沢山咲いたら、一緒にお出かけしましょうね」
何気なく誘い掛けられるは、きっと泰衡さんが断らないと思って居るから。
「――考えておこう」
そう言いながらも、忙しい予定を何とかして出かける時間を作ってくれるのだろう。
彼はそういう人だから。
ゆっくりと、ゆっくりと泰衡さんの心が解れて行っているのが解る。
其れは、厳しい冬を春が和らげているのと少し似ていた。
冬は好き。
けれど、春も悪くない。
こうやって夏も秋も好きになって行くのだろう。
貴方と共に過ごす全ての季節が、祝福されたようになりますように――。
やわらかく吹く風を浴びながら、私はそう願わずにはいられなかった。