■ひそやかに、ひそやかに
最近の彼女は、少し元気がない。
普段は変わらずに柔らかく微笑んでいるのだけれど、ふとした折に表情を曇らせる。
如何したの、と問いかけたいのに、言葉が喉に張り付いて、何時も出てこなかった――。
「……望美、如何かしたの?私の顔に何かついているのかしら?」
宿の一室。
二人と、幼い姿をした白龍に割り当てられた部屋は、今は明かりが抑えられぼんやりと薄暗い。
白龍は既に寝息を立てるようにして寝ている事もあり、実質的には二人きりと変わらない。
布団の上に腰を降ろし寝支度をしている朔を、見詰めすぎていたのかもしれない。
「……え、あ……っと。な、何でもないよ」
切り出し方が解らずに、思わず口篭り結局は口を噤んでしまった。
問い掛けてくれた今ならば、若しかしたら聞くことが出来たかもしれないのに。
意気地なしだと唇をきつく噛み締めた。
「……そう……?」
釈然としないながらも、其れ以上は問い質されない。
少しの間の沈黙の後、朔の視線がもう一人へと移される。
「――よく、眠っているわね……」
優しい声は、眠っている白龍に落とされる。
ずり落ちた布団を、掛けなおしてあげる仕草が何処となく大人びて、寂しげに見えた。
「……さ、朔……」
其れが、何時も見ている曇った表情ととても似通って見えて、気付いた時には呼びかけていた。
「なに? さっきから言いたそうにしていたから、そのことかしら?」
促す言葉運びは優しくて、ごくりと唾を飲み込んだ。
「朔、は……偶に凄く哀しい目をしてるように見える……。何でか、聞いても良い?」
そんな質問が飛び出すだなんて、思ってもみなかったのだろう。
朔は、微笑もうとして、失敗したように泣き笑いのような表情になってしまった。
「……あ。……やだ、私ったら……ご、ごめんなさい、ね……」
上手く笑えない自分を自覚し、片手を額に宛て、表情を半分隠してしまう。
心を見ないでと、覗かないでと言っているように…。
「……朔」
呼びかけると、首が左右に振られた。
「待って、……お願いよ、望美、少しだけ、待って……そうすれば、……そうすれば、私……」
どんどんとか細く、消え入るような声になって行く。
どんな呼びかけの言葉も持たずに、私はただ、朔が心を落ち着けてくれるのを、待っていた…。
「――ごめんなさいね、望美。……私、もう、本当に、駄目ね……」
暫くして落ち着いた朔の目尻は赤くなっていた。
彼女をこんな風に追い詰めてしまったのは自分なのだとチリリと胸が痛んだ。
「……私、貴方に心配をかけてしまっていたのね」
佇まいを直した彼女は、全てを打ち明けてくれるつもりなのだと知れる。
「最近、ね……どんどんと、あの人の面影が遠くなって行っているような気がするの」
あの人、と。
朔がそう呼ぶのは一人しかいない。
近しい人を感じさせ、尚且つ限りない愛情を感じさせる呼び方。
彼女を、神子として選んだ龍。
「黒龍が……?」
こんなにも想って居るのを目の当りに出来るのに、そんな事を言う彼女が信じられなかった。
確認をするように紡いだ言葉に瞳を揺らしながら、彼女はひとつ頷いてみせる。
「可笑しいわよね……あんなに愛していたのに。…目を閉じると、一昨日よりも、昨日よりも、あの人の声が、表情が遠くにあるの…」
ぎゅ、と膝の上で握りこまれた彼女の手は震えていた。
忘れる筈なんて無いのに、消える事なんて無いのに。
それなのに、想い人の色だけが薄くなって行く。
そんな自分に恐怖を感じずにはいられないかのように、朔の瞳には不安がちらついているのだ。
「このまま、思い出せ無くなるのかしら。そうしたら、この想いも、何時しか消えてしまうのかしら……」
考えたくない、そんなこと思いたくない。
それなのに、不安に胸が押しつぶされそうになっている。
「今直ぐ傍に来て抱きしめて欲しい。何を馬鹿な事を考えているんだと叱って欲しい。……なのに、それなのに、あの人は私の傍に居てくれないの……」
言葉を紡いで行くうちに耐え切れなくなったように、膝の上にあった手は、口許に持って行かれ、かたかたとはっきり見て取れるように震えていた。
「時というものがひそやかに私の中の大切なものを奪い去って行くの。……私は、それを留めたいのに、……止まらないの……っ」
悲鳴とも呼べる悲痛な言葉は、身を切り裂いてくれた方がいっそ楽なのではないかと思う程に。
震える彼女を見ていると、何だか急に怖くなってその身体を抱きしめた。
離してしまえば直ぐにでもバラバラになってしまうのではないかと恐れているように、強く、強く。
「望美、望美……私、怖いの……もう、これ以上あの人の欠片を失いたくないの――」
しゃくりあげるように泣きついてくる姿に、胸が締め付けられた。
彼女の想いはとても深く、重く。
このまま壊れてしまっても可笑しくはないと思える程。
其れ程までに今の彼女は脆く見えた。
ひそやかに、ひそやかに彼女の心を闇が蝕んで行く。
その事に気付けても私は、どうすることも出来ずにいる。
「朔、きっと、大丈夫だから……」
もうこれ以上彼女は傷つくことに、耐えられない。
そう解っているのに。
彼女に傍にいて欲しいと、一緒に旅を続けてほしいと、思ってる。
これは……私のエゴだ。
「ッ……!明日になれば、ちゃんと元通りに振る舞うわ。だから、だから……お願いよ」
睫毛に涙を溜め、懇願するように縋りつき、しゃくりあげながらも懸命に音が紡がれる。
「あと少し……もう少しだけ、……このままで、いさせて……」
――黒龍の神子の流す涙は、悲しい程に美しかった。