「――へえ、指輪?」
「そう。私達の世界では、結婚指輪を左手の薬指に嵌めるの」
剣を握り続けていた為に、掌は柔らかいとは言い難かったけれど、其れでも十分ほっそりとして綺麗な手を望美は翳して見せた。
睦言を紡ぐように、甘やかに。
其れは隣に座る男の耳を、心地良く擽るのだ。
「……それなら今度遠出するから其の時に買ってきてやるよ。お前の瞳と同じ色した綺麗な石のついた指輪を」
ヒノエはそう言い手を伸ばすと、するりと望美の手を絡め取りその薬指に口付けた。
其の感触と、愛おしむようなヒノエの表情に望美は顔を赤らめる。
何時まで経っても恥らうような其の仕草がより、望美を愛しく想うヒノエの気持ちを増させるのだ。
「別に欲しくて言ったわけじゃないんだよ」
遠慮するような望美の台詞に、ヒノエは笑う。
憧れの眼差しを持って言う姿は、とてもいらないようには見えなかったと言うのに。
「オレが贈りたいんだよ。……お前が喜ぶ顔が見たいからね」
優しく囁きながらヒノエは望美を抱き寄せ――望美は、幸せそうにそっと瞼を閉じるのだった。
「――ッ」
繕い物をしていると、指に針が突き刺さり、人差し指にぷくりと赤い血の玉が出来てしまう。
「やだなあ。ちっとも上手くならないんだもん」
剣ならばもっと上手く扱えるのにと思って、溜息が零れ落ちた。
「……酷い雨……」
繕い物は諦めたように置いてから、ゆっくりと立ち上がり外を眺めた。
豪雨と言うのが相応しい悪天候。
――何故だろう。如何してだか心が落ち着かない。
もう直ぐ帰って来ると言う連絡があったからだろうか。
ぎゅ、と胸を押さえると俄かにバタバタと駆け抜けて行く音がする。
時折漏れる声は、船や嵐など、不安な単語を孕みすぎていて――望美はいても立っても居られなくなり、部屋を飛び出した。
いきなり飛び出た事に、ぎょっとしたように立ち止まる男は、水軍の一人。
咄嗟に望美はその男の服を掴み、問い詰めるように口を開いた。
「何があったの?!」
男は言い難そうに視線を泳がせたが、其れを望美が見逃す筈もない。
徐々に厳しい表情になって行き男を睨みつけた。
すると男は観念したように、困り顔ながらも低い声を吐く。
「……頭領の乗った船が、難破したらしいんです。一部の者が何とか流れ着き――」
「何処?! その人達のところへ案内して!」
最後まで言葉を聞くのが待てないように望美は言葉を遮り、男を促す。
今更何を言っても無駄だと悟ったのか、男は望美を連れ、廊下を駆けた――。
既に収容された者達は、びしょ濡れになりながらも治療を受けている。
見た事のある顔も多く焦燥が胸を焼く。
望美の目は忙しなく一人の人物を捜す。けれど、其の姿は何処にも無かった。
「……ヒノエくん」
小さく呟くと、其の声に反応したように比較的軽症だった男が呻き声を上げた。
「頭領、は……、最後まで、残って」
掠れた声と共に紡がれる言葉、其れは余りにも残酷な宣告。
望美は視線を其の男に向けると、視線を合わせるように屈みこんだ。
「船を……怨霊が襲ったんです……頭領は、自分は怨霊と戦った事があるからと言って、残り……怨霊に、船が、沈められて……」
「怨霊が……? そんな、いなくなったはずじゃ……」
否、最早そんなことは問題ではない。
――船が沈んだくらいでヒノエが居なくなるはずないと望美は思って居た。
だが、沈んだ先に怨霊が居たのならば……ヒノエの生存は、殆ど絶望的に近い。
「――ッ!」
「望美様!?」
そう思うと様々な想いが込み上げて来て、制止の声を振り切るように口許を抑え望美は外へと駆け出した。
外に出ると、横降りの雨が激しく身体に打ち付ける。
だがそんな事を気にして居る暇はないと言うように、望美は海の方へと駆けた。
――胸騒ぎがした瞬間から、本当は予期していたのかもしれない。
若しかすると、こんな結末になるかもしれないと言う事を。
感付いてはいたのだ……ただ、気付きたくなかっただけ。
浜辺に降り、雨に濡れた砂浜を踏み歩いて行く。
ともすれば波に攫われてしまうのではないかとすら思う程、海は荒れている。
他の者達が流れ着いたのですら、奇跡であったと言える程。
「ヒノエくんッ!!」
搾り出されるように吐いた叫びは、強風に煽られ掻き消える。
呼び声に応える者は、いない。
「……お前が喜ぶ顔が見たい、って、言った癖に。……泣かせないでよ……!」
悲しみに満ちた叫びは海にすら届かないのだろうか?
雨とは違う雫が、止め処なく流れ落ちる。翡翠色の瞳から零れ落ちる。
「――?」
キラリ、と、砂の上にこの豪雨の中でも解る、煌きがあった。
ぐい、と顔の雨とも涙ともつかぬ水を乱暴に拭い、望美は其の光の方へと足を向けた。
まるで導かれるような足取りで、頼りないにも関らず……明確な意思を持って。
「……これ」
打ち付ける雨に負けたように砂の上に膝をつく。
光ったものの正体は――。
「ゆび、わ……」
――お前の瞳と同じ色した綺麗な石のついた――
不意に弾けるように望美の脳裏にヒノエの言葉が浮かぶ。
鮮やかな色彩を放つ石は尚も輝き続け、まるで己の存在を主張するように其処に在った。
「ヒノエくん……」
そっと手を伸ばすと、其れまでの光景が嘘だったかのように指輪は掻き消え、望美はただ雨に濡れ重たくなった砂を掴む。
指輪など、無い。
其れは雨に覆われた世界が見せた錯覚だったのだろうか?
余りにもヒノエを想う気持ちが見せた幻だったのだろうか?
「――いいえ。……いいえ」
緩々と首を横に振り、望美は砂を掴んだ手を胸元に引き寄せる。
其の目はもう、涙を流してはいなかった――。
【企画部屋】