己の兄と、己の対が和やかに笑い合う姿が、やけに印象的だった。

 兄上は見たこがない程に幸せそうに、望美は、とても穏やかに。

 望美が此方に視線を向け、鮮やかに笑う。

 こっちにおいでと手招く望美と、優しく笑う兄上との間に割って入るのは、何故だかとても、躊躇われた。


「……兄上は、望美の事が好きなのね」

 二人の折、呟くように語り掛けると動揺したように少しだけ挙動が不審になる。

 其れを見て「嗚呼矢張り」と何処か冷めた風に思うのは何故だろうか。

 其れ以上言及せずに沈黙を貫いていると、其れに耐えかねたのか兄が少し頼りない表情で、口を開いた。

「そんなんじゃ、ないよ」

 こういう時、兄は嘘を吐くのが下手だ。

 否定はしてみるものの、少し困った顔をして明確な理由を告げる事が出来ない。

 何処を如何見ても兄が己の対に好意を抱いているのは明白だと言うのに。

「若しも兄上が……黒龍の事で私に遠慮しているのなら、そいうのは止めて頂戴。……気持ちを押し殺し、隠されてしまう方が余程嫌だわ」

 恐らくはそういう理由からだろうと予想をして、出来うる限りはっきりと告げた。

 けれども兄の反応は驚いたような、何とも言えぬような……そんなものだった。

「ち、違うよ朔。……俺は、そんな事まで気遣えるような、出来た兄じゃないよ。それに、どちらにせよ俺は……望美ちゃんのこと、好きになっちゃいけないんだ」

 頼りないとも取れる言い回しと表情は、我が兄ながら見ていて少し苛立つもの。

 ねえ、そんな調子だと直ぐに他の人に取られてしまうわよ。

 そう言ってやりたいのに咄嗟に台詞が口から出て来ない。

 兄の恋路自体を応援するつもりではない。

 何故なら、私の対には本当に好きな人と結ばれて欲しいからだ。

 ……血の繋がりのある兄には、それは当然幸せになって欲しいと思うけれども。

「兄上がそのような態度では、想われる方だって迷惑だわ」

 恐らく望美は兄の気持ちに気付いてはいない。

 けれど、若しも知った時にはきっとどちらも想い悩むことになるだろう。

 だから敢えて強い調子で兄を窘める。

 その真意が伝わったのか、兄はあの、お決まりの困った笑みを浮かべてみせるのだ。

「――俺が、彼女の事を好きになること自体が迷惑なんだよ」

 まるで自分の幸せなんて最初から諦めているような……いや、“ような”ではない、完璧に諦め切った態度。

 その理由も口に出来ないのに、自らが身を引けば其れで万事解決だと想っているようですらある。

 ――兄上は、知らないのだろうか。いいえ、知っている筈よ。

 想いを伝えるべき相手が近くにいると言う幸せを。

「後悔をするのは兄上よ。……其れでも、良いの?」

 此の問い掛けに返って来る答えはなく、兄はただ曖昧に笑っただけだった――。


 昼間の兄との会話を思い返しながら、じっと針と糸に視線を落とす。

 時は夕刻。綺麗な茜色が縁側から差し込んでくる。

 そんな中での、解れてしまった衣服の繕い。

 その作業の手を止めてしまった私の顔を、何時からか望美が見詰めていた。

「朔? 如何したの? やっぱり私、自分でやろうか?」

 心配そうに問いかけて来る望美の声に面を上げ、少しぼんやりしていただけだと告げる。

「でも、其れ私のだし……」

 申し訳無さそうに言う姿を見て、思わず微笑ましくなって目を細めた。

 上手く繕えないと泣きついてきたのはつい先程の事。

 最初は教えようと奮起していたのだけれど、如何も危なっかしい手つき過ぎて、遂には私が縫うことになったもの。

「いいのよ。望美の事は私がしてあげたいんだもの」

 そっと笑うと、望美も少し嬉しそうにはにかんでみせる。

 長い時間を共に過ごしたわけではないけれど、確かに親友と呼べる存在。

 ふと、如何しても聞いておきたい事があって、望美に向かい、ひとつ問うた。

「ねぇ、望美。今……異性として、誰か、想っている人は居ない?」

 聞けばきっと教えて貰える。

 そんな確信めいた予感は、当たっていたのだろう。

 望美はきょとんとした顔をした後、少しだけ唸るように首を傾げてみせた。

「うーん。……恋愛、って限定すると、居ないかな。……皆大切だし、そういう意味では想ってる」

 想いの外はっきりと告げられて、驚いたのは此方の方。

 解らない、とかそういうのではない、明確な答え。

「……如何して?」

 自分が間抜けな質問をしているとわかっていたけれど、如何してそうまで言い切れるのかが気に掛かった。

 すると望美は――笑った。

 強い眼差しで、確かな決意を持って。

「遣らなきゃならないことがある。私は皆を守りたくて……今は、其れで精一杯で、そんな所まで気持ちが回らないんだ」

 其の答えを聞いた瞬間に、――彼女は戦う人なのだと、実感させられた。

 不思議と残念だと言う気持ちは湧かなかった。

 寧ろ――。

「ふふ」

 寧ろ、嬉しいとすら想ってしまう。

 望美の恋を応援するとか、そんなことを想っていた筈なのに、こうやってはっきりと「居ない」と聞いて、安心すらしているのだ。

 ――私、きっと未だ望美の事を誰にも取られたくないのね。

 今更ながらに気付いて、まるで子供のような感情だと笑いが込み上げてきた。

「如何したの、朔?」

 不思議そうな面持ちで問い掛けてくる望美に対し、私は緩く笑みを返、想っていたことを告げた。

「……何でもないのよ。ただ、少し安心しただけ」

 ……やっぱり望美は、不思議そうな顔のままだったけれど。




heart-whole…(まだ)恋を知らない

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