「ヘンリエッタ……ヴァイオリン、教えてくれる……?」

 突然の申し出だったにも関わらず、ヘンリエッタは微笑み、頷いてくれた。

 ジョゼさんに貰ったヴァイオリン。

 ジョゼさん習ったヴァイオリン。

 ヘンリエッタにとって大切である筈のものなのに、私にも教えてくれる。

 ――同室のヘンリエッタは優しい。

 私が突然「教えて」と言い出した事に対して何の質問をしてこない。

 ……ううん、本当は気付いているのかもしれない。

 最初にヴァイオリンを弾かせてくれた時のことを、覚えているのなら。

 気付いていて、問い掛けないのかもしれない。

 ……ヘンリエッタは優しいから。


「……え? ジャンさん、出掛けるんですか」

 訓練を終え、ヘンリエッタの隣で片付けを始めた私に、ジャンさんは言った。

 明日も訓練を行うとばかり思っていたのに、無いのだと。

 其の無表情な顔からは何の感慨も見受けられない。

「ああ。とは言ってもローマ内のヴィラ・ガッディホテルだがなだ。お前は今回公社で待機を……」

「あの! ……あの、ジャンさん。あの、ええと……私も、ついて行ったらいけませんか……? 勿論、ジャンさんのお仕事の邪魔はしません。外で大人しく待ってます」

 必死に食い下がるように言葉を紡いだ私に、ジャンさんは些か気分を害したように目を細めた。

 次に飛んでくるのは恐らく叱責であると覚悟し、身を竦めても咎める声は振って来なかった。

 その代わり、呆れたような溜息が零れ落ちる。

「……今回は公社の管轄外だ。銃は持ち歩くな。出発は明日の明朝。駐車場に来い。遅れたら置いて行くからな」

 矢継ぎ早に紡がれる言葉は、許容を表すもの。

 何度も何度も頷いて、私はジョゼさんに感謝をした。

 私はどうしてももう一度其処に行きたかったのだ。

 ヴィラ・ガッディホテル。

 …………その裏口で私は、エミリオと出逢ったのだから。

 ジャンさんは一瞬だけ何とも形容し難い表情を見せ、ジョゼさんに声を掛け、共に私たちに背を向けて歩き出した。

 片付けを再開しようとした所で、私がジャンさんと会話をしている間に片付け終わったヘンリエッタが口を開く。

「……リコ。明日、ヴァイオリン貸してあげるよ」

「え?」

 控えめに紡がれた申し出は、ともすれば聞き漏らしてしまいそうな程に小さかった。

 けれど、ヘンリエッタの気遣いはとても心に良く響いて、……嬉しい。

「いいの?」

 気持ちは既に貸して貰うつもりで、其れでももう一度許可が欲しくて、私はヘンリエッタに問い掛ける。

 そうするとヘンリエッタは少しだけ曖昧に笑って、小首を傾げてみせた。

「うん。リコ、いっぱい練習したもん。……覚えてるよ。何時か話してた、男の子のためだよね。……だから、いいよ。明日は特別」

 明日、音楽の授業が出来なくなるだけだもん。

 そう努めて明るい笑顔を作ろうとするヘンリエッタに、感謝の気持ちが込み上げてくる。

「あ、ありがと、ヘンリエッタ……」

「いいよ。でも、大事に扱ってね?」

 ジョゼさんとの間を繋ぐものが、何ひとつでも傷ついて欲しくない。

 そんなヘンリエッタの想いを目の当たりにしながら、私は大きく頷いた。


「リコ。一時間後にはロビーに戻って来い」

 ジャンさんは時計を見てそう言い残すと、私を置いて一人、ホテル内のエレベーターへと乗り込んだ。

 今エレベーターが何処にあるのかを示すランプが2階、3階と上がって行くのを見送ってから、私はロビーを出てホテルの裏口へと回る。

 手にはアマーティの楽器ケース。

 何時もは銃が入っている其処には、今日ばかりは本物のヴァイオリンが入ってる。

 意味のない事だって解っていても、私は其れを揺らさぬように、大事に大事に腕に抱いた。

 ホテルの裏口は薄暗くて、ゴミ箱とか、そんなものばかりが目立つ。

 “いつもここらへんに居るから”

 其の言葉が、耳に甦るような、不思議な感覚。

 私は扉を見遣り、そうして、ひとつ、溜息を吐く。

 ――現れるわけ、ない。

 だって、エミリオは。

 ――私が、撃ったんだから。

「ごめんね」

 謝っても如何にもならないし、ジャンさんに言われていたことだから、後悔はしない。

 でも、少しだけ。

 ……ほんの、少しだけ。

 胸をちくりと刺すような罪悪感に襲われる。

「……ごめんね」

 もう一度謝って、私はアマーティのケースを開け、ヴァイオリンを取り出した。

 ヴァイオリンを構え、弓をやわらかく持つ。

 ヘンリエッタから教えて貰った事をひとつずつ、丁寧に思い出しながら、そうっと弓を滑らせる。

 ……ひとつ、低い音が響き、それから徐々に滑らかに音を紡いで行く。

 多分きっと、間違いだらけのエチュードで、上手く弾けてるとは言い難かっただろうけれど。

 私、一生懸命弾いたよ。

 楽器を弾いてくれって言った、エミリオとの約束、果たせたかな?

「もっと、練習しておけば良かった」

 公社の人以外で、初めて私を「リコ」と呼んでくれたエミリオ。

 ありがとう。嬉しかったよ。

 殺してしまってごめんなさい。

 そして

 さよなら。

「リコ」

 ヴァイオリンをしまっていると、何時の間にかジャンさんが表通りから姿を現していた。

「あ、あの、一時間、過ぎてしまったんですか……?」

 そんなにも長くこの場に留まってしまっていたのだろうかと思い、問い掛けるもジャンさんは首を横に振るだけだった。

 ならば、ジャンさんの方の用事が早めに終わってしまったのだろうか。

 近づいて来たジャンさんが、私の頭を撫でる。

 ううん、“撫でる”と言うよりは“頭に手を置く”の方が正確だったのかもしれない。

 でもジャンさんはきっと不器用な人だから、此れがジャンさんの“頭を撫でる”という行為。

「帰るぞ」

「はい。ジャンさん」

 ――さよなら、エミリオ。




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