厚い雲が空を覆い、時折思い出したように、月の光が漏れ射してくる。

 闇に近い夜に交わす、他愛無い会話は密やかに、小さく。

 しんと静かな夜に、発する言葉は響いてしまうから。

 時折視線を交えながら……優しい声に耳を傾ける。

「――では、そなたは此処ではない世界から参ったのか」

 不可解なことを聞かされている筈なのに、季史さんは僅かに不思議そうな顔をしただけで、直ぐに納得したような仕草をしてみせる。

 そうですよ、と言う風に頷いて、付け加えるように私は口を開いた。

「龍神の神子だなんて言われているんですけど、良く解らないんです。実際に私を此処に呼んだのは龍神様じゃなくって……アクラム、っていう鬼ですし」

 京を救うだなんていう大義名分がある。

 其れでも自分がしていることが、本当に京を救えているかなんて、解らない。

 それは、自分が京の現状を詳しく理解できていない所為でもあるのだろうけれど。

「いや、そなたは正しく龍神の神子だろう。……そなたは、此れまで見たことが無い程の清浄な気の持ち主だ」

 ゆっくりと紡がれる言葉は確信に満ちたもので、すんなりと受け入れることが出来る。

 ううん、受け入れるというよりも、……何だかとても、安心する声、なのだ。

「あかねは……」

 そっと、問い掛けかけて、言葉を止める。

 矢張り何でもないと言う風に微笑み、緩々と首を横に振る姿は「聞いてくれ」と言っているのと同じだと私は思う。

 季史さんの言葉なんだから、気にならない筈が、無い。

「何ですか? 言って下さい」

 真っ直ぐに、彼を見詰めて。私はその続きを促した。

 彼は其れを拒否する風でなく、少し、間を置いてから続きを口にした。

「……大した事ではない。……そなたは、全てが終わればその世界へと帰ってしまうのか、と思っただけのこと」

 何でも無い態度を装い、季史さんはそう口にしたけれど。

 其れは何より、私の心を深く突き刺した。

 彼が余りにも遠くを見詰めていたから。

 何時か来る別れを、既にもう惜しんでいるように見えたから。

「……私」

 正直に言うと、帰りたいか如何かははっきりとしない。

 出逢ってほんの僅かしか経っていないのに、他の誰よりも季史さんと別れ難く思って居る。

 ……季史さんも、少しでも私と同じように別れたくないと思ってくれていますか?

 そう問い掛ける事も出来ずに、私は思わず口を噤んでしまう。

「内裏での生活は、矢張り窮屈なもの。そなたは外で笑っている方が良く似合う。……元々居た世界では、そなたはもっと笑えていたのだろうか」

 柔らかに重ねられて行く言葉は畳み掛けるように響く。

 帰った方が良いと、無言の内に勧められているようにすら感じる。

 ……寂しいと思って居るのは、私だけですか。

「私、……迷ってます。……此処に、離れたくない人が居るから、迷ってます」

 勇気を振り絞るように、懸命に私は訴えかける。

 其れは今の私にしてみれば、告白に相応するもの。

「離れたくない……人」

 反芻するように漏れた声に、半ば吹っ切れたように私は拳をぎゅっと握り締め、力強く言った。

「季史さんと、離れたく無いって思ってるんです」

 貴方が少しでも寂しいと思ってくれているのなら。

 私は、此処に残ったって良いとすら思って居る。

 ……季史さんの返事は直ぐには無かった。

 けれど、その代わりに。

 ふわり、と。眉間に柔らかいものが押し当てられたのが解った。

 ひんやりとした、それでいて、とてもとても優しいもの。

「す、季史さん?!」

 途端、顔に熱が集まってくるのがわかる。

 押し当てられたものは、季史さんの唇だ。

「……あかね、私は――」

 押し殺したような、低い声だった。

 其れが不安で、恥ずかしさなんて何処かに行ってしまって。

 私は季史さんの顔を仰ぎ見ようとしたけれど、其れは出来なかった。

 次の瞬間には、彼の腕の中に、きつく抱き込まれてしまったから。

「――私は、そなたの其の言葉だけで、……」

 苦しげに季史さんの肩越しに、暗い雲が広がる空が見える。

 ……嗚呼、何故だろうか。

 雲間から顔を覗かせた月が、嘲笑うかのように私達を見下ろしていた――。




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