「……ん」
小さな声を洩らし、あかねは小さく身動ぎする。
一度寝入った筈なのに、程無くして目が醒めてしまった。
時間が時間なだけにもう一度眠りにつこうとしたのだけれど、どうも落ち着かずに結局其の身を起こした。
シンと静まり返った室内は、全てのものが寝静まっているように衣擦れの音すら良く響く。
微かに差し込む月明かりは十分に明るいのだけれど、まだまだ夜明けが遠い事を語っていた。
「……、なに?」
誰かが呼んでいるのとは少し違う。
呼ばれてはいない。
ただ、“気懸かり”という単語がしっくりくるような、落ち着かない感情が胸にある。
――其れを押し殺して寝てしまうという選択肢があったのも事実。
だけれど、此方の世界に来てから些細な事でも良く胸に引っかかるのだ。
如何しよう、と少しだけ悩む素振りをしてみたものの、結局あかねは外へと出てみる事にした。
夜は冷える為に上着を羽織り――、誰かを起こしてしまうのは忍びないから一人きりで。
館を抜けると、ひやりとした空気が頬に当たる。
怨霊が現れたら如何しようと思うのと同時に、何故だか今宵は悪いものには遭わないような、そんな予感があった。
「霧が出てきてる?」
館をそう離れない内に、薄い靄が掛かったように視界がぼやけてきた。
最初こそ気の所為かと思ったものだけれど、先が殆ど見えなくなって来ているようになれば最早疑いようがない。
不安になり引き返してはみたものの、元々此の地の地理に詳しくないのだ、迷ってしまったと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
「どうしよう、誰か……」
周囲を見渡してみても、時刻が時刻である上に近くに人が居たとしても、霧の所為で人の姿を判別するのすら難しい。
その時、人と思わしき影がふっと動いた。
「あっ!」
待って、と声を掛ける前に其の姿は角を曲がって消えてしまう。
慌てて其の背を追いかけるように駆け出し――距離が縮まった所で、その人物が持つ色合いが視界に飛び込んで来た。
間違いない、彼は……。
「セフル!」
あかねが呼び止めた相手は、其の声に驚いたようにビクリと体を揺らし立ち止まり振り返る。
そして自分を呼び止めたあかねの姿を見るとあからさまに厭そうに目を細めた。
「何やってんだ、こんな時間に一人で出歩いて」
「セフルこそ、何やってたの」
穢れを撒いているのかと最初は思ったが、そんな風な素振りにはまるで見えない。
事実、あかねに見つかって厭そうな顔こそしたが、何か見つかってはならぬことをしているという風ではなかった。
「……僕の事は如何でも良いだろ。こっちが聞いてるんだ」
態々不快そうな態度を取るセフルを気にする風でなく、あかねは開いた距離を縮めるように数歩足を進め、少しだけ、言い難そうに口を開いた。
「あの、ちょっと迷っちゃって」
迷った、と聞いた途端鼻白むように顔を歪め、笑みのようなものを作り出す。
「馬鹿じゃないの? 大人しく八葉に守られてれば良いのに、ノコノコ一人で出歩くなんて。――此処でお前を始末する事だって出来るんだぞ」
脅しのような口調でも、その実全く真実味が帯びられていない。
こんな時、彼は至極素直であると実感させられる。
「だけど、今の僕は気分が良いんだ。見逃してやるからさっさと行きなよ」
ふっと疲れたように言い放つと、セフルはあかねに背を向けて歩き出した。
其の足取りの重さを見て、あかねは一瞬の逡巡の後にセフルの後をついて歩き出す。
「……着いて来るなよ」
セフルは些か苛立ったような声を出す。直ぐ後ろを歩く気配は気付くなという方が無理な話だ。
「だって。……その、迷ったし」
セフルのことが心配だったから、と言い出してしまうと、きっと彼は怒ってしまう。
そんな光景が容易に想像出来た為、あかねは咄嗟にそんな言葉を吐き出した。
だが、どちらにせよセフルを怒らせる結果に至ったようで、セフルは勢い良く振り返った。
「だからって僕について来るなよ! 僕が戻るのはお館様のところなんだ!!」
激昂と言うに相応しい苛立ち方に、あかねは少しの違和感を覚えた。
セフルの顔をよくよく見てみると、心なしか顔色が悪く目の下に隈が出来ている。
「……セフル、寝てないの?」
正確に言えば“眠れてない”の方だったか。
指摘されたことが図星であったかのようにハッとした顔になったセフルはあかねから顔を背けた。
「そんなことお前に関係ないだろ」
そして再び背を向けると、先程よりも幾分か早足に歩き出す。
其の背をまた追い掛けるようにあかねも小走りになったけれど、今度はセフルは何も言わなかった。
「あ、あのね。私達の世界では眠れない時とか、羊の数を数えたりするんだけど。“羊が一匹、羊が二匹”って。そうすると寝れるんだって」
「そんなの僕に言って如何するんだよ」
言葉を返してくれるだけマシだが、セフルは一向に歩みを止めない。
暫しの無言の後、此の侭セフルに着いて行っても如何しようもないのかも、とあかねが思い出した頃、セフルが不意に立ち止まった。
「……?」
ぶつかる訳にも行かず、真似るようにあかねも歩みを止めセフルの背を眺め首を捻った。
だが、次の瞬間気付く。
其処が藤姫の館の前であることを。
ぽかんと館の方に視線を取られていたあかねだったが、直ぐにセフルが案内してくれたんだという事に思い当たりお礼を言おうと視線をセフルに戻そうとしたが、
「……あ、あれ?」
既に其の姿は何処にも無く、あかねは一人、その場に取り残されていた。
「……羊、か」
薄暗い洞窟の中、呟きを洩らすとその声は良く反響する。
「下らない」
そんなもので眠りにつけるのだったら誰も苦労はしないと言う風にセフルは吐き捨て、自分の寝床に丸まった。
――目を閉じると、先程逢った神子の声が、頭の中をぐるぐる回る。
煩いな。と疎んでみても、其の声は消えて無くならない。
だから。そう。仕方なく。
本当に仕方なく、神子の言っていた通りにしてみてやった。
どうせ眠れないのだ。
試してみてやっても良い。
「……羊が一匹」
声に出してみると思いのほか気恥ずかしくて、……何故だか、あたたかいとすら感じてしまって。
「羊が、二匹……」
更に続けて行くと、心の臓の音すら安心して聞くことが出来る。
――変だ。こんなの、効く筈ないのに。
涙が出そうな程にあたたかく感じるのだろうか。
すっと目尻から流れ落ちる涙に気付かぬまま、セフルはそのまま優しい夢の中へと陥って行った――。
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