「……ヒュウガさん、如何かしたんですか?」
ウォードンでの依頼を終え、陽だまり邸へ帰る為に街道を通っていると、不意にヒュウガの動きが止まった事に気付き、アンジェリークは声を掛けた。
「いや……泣き声が、聞こえた」
ヒュウガの言葉に導かれるようにアンジェリークの視線は道から外れた森の方へと向けられた。
耳を澄ませてみれば、成る程、確かに小さな子が泣いているような、そんな声がするのだ。
「……あの、ヒュウガさん……」
少しだけ遠慮した風に、アンジェリークは隣に立つヒュウガを上目遣いで見遣る。
アンジェリークが何を言おうとしているのか問う迄も無く、構わないと云った風にヒュウガは頷いてみせた。
其の事に安堵したようにアンジェリークは息を吐いてみせ、ヒュウガについて行くように森の中へと足を踏み入る。
タナトスの罠――と、そういった可能性が考えられないわけではないが、其処までタナトスが周到である例は聞いた事がない。
大丈夫だろうといった判断から促したのだが、其れでも尚絶対に安全だとは言い切れず、ヒュウガは自分よりやや後ろをアンジェリークに歩かせた。
「恐らく此の辺りだと思うが」
言うや否や、視界の端に小さな影が映り込み、腕を伸ばしアンジェリークを踏みとどまらせるような所作をした。
小さな影は、小さな子どものようだった。
よくよく見れば、5歳程度の女の子がぎゅ、とフリルのスカートの裾を握り締め、立ち竦んでいる。
此処で再びアンジェリークはヒュウガを窺うような素振りを見せたが、今度はヒュウガの反応を待たずに、ふわりと羽根のような足取りで幼女の方へと駆け寄った。
ヒュウガは、それを止めなかった。
瞳いっぱいに涙を溜めた幼女と目線を合わせるようにアンジェリークは屈み込み、首を傾げて見せた。
「どうして泣いているの? 迷子、かしら?」
柔らかく語りかける声音は極めて優しく森の中に息づき、幼女はしゃくり上げながらもアンジェリークをじっと見詰めた。
アンジェリークに数歩遅れるような形で、ヒュウガも幼女に近づいて行く。
このような町外れで迷子というものも可笑しいが、親御と離れてしまったのならば、その可能性は無くもないだろうとヒュウガは素早く頭を整理していた。
「パパ……ママぁ……」
ふにゃりと顔を歪め、ぼろぼろと涙を大量に流す幼女に、流石のアンジェリークも困り顔になってしまう。
「取り敢えず一旦ウォードンに引き返した方が無難だ」
親が探しているという状況も考えられるが此処でまごついているわけにもいかない。
ヒュウガの判断に賛成し、アンジェリークは幼女の手を取ろうとした――その時。
黒い影が幼女を覆おうとするかの如く現われた。
「タナトスかっ!」
盾になるようにヒュウガはタナトスと二人の間に体を割り込ませ、一撃を弾いた。
「アンジェリーク!」
名を呼ばれ、弾かれたように幼女を背後に庇った。
ヒュウガはタナトスに切り掛かり、間合いを取るように半歩引いてみせる。
――手応えは、ある。
梃摺ることはないだろうと、そう予想した通りタナトスは直ぐに滅した。
……予想外だったことと言えば、タナトスを倒した直後に幼女がぴたりと泣くのを止めたこと。
安心して泣き止んだ、と。そう言った風ではなかったのだ。
「あのばけもの、きえちゃったの?」
泣き続けていた所為か、掠れ気味の声で問い掛けてくる。
その声には微かに期待が籠もっているようにすら聞こえた。
「ええ、そうよ。もう怖く無いわ」
違和感を拭おうとするように、安心させようとアンジェリークは声を掛ける。
しかしそんな気遣いを余所に幼女はぎゅっと拳を握りしめ、笑ってみせた。
「それじゃ、パパとママ、かえってきてくれる?!」
――幼子の口から飛び出してきた言葉は、理解し難いものだった。
「……パパと、ママ?」
「あのね、このあいだ、ばけものにおそわれて、わたしとパパとママ、がけの下におちちゃったの。……そのときから、パパとママ、うごかなくなっちゃって……しんじゃったの」
息を、飲むしかなかった。
崖から落ちた時、幼女は両親から庇われ、無事だった。
そして――恐らく、幼女の両親は既にこの世に居ないのだろう。
幼い少女は、“死”という観念を理解できておらぬのだ。
“ばけもの”の所為で動かなくなった両親、その化け物が消えれば、戻ってくるに違いないと――そう、信じて疑っていないのだ。
「パパとママ、どこにいったの?っておばあちゃんにきいても、かなしそうなおかおするだけだから、わたしね、パパとママがおいてけぼりにされたんじゃないかって、むかえにきたのよ」
ヒュウガは眉を顰め、考えを巡らせた。
祖母が居るのならば、待っている者が居るのならば尚更連れて帰らねばならぬ。
だが……、言い聞かせることが出来るだろうか、それだけが気懸かりだ。
「……ね、お姉ちゃんの話、聞いてくれる?」
ヒュウガが躊躇っている間に、アンジェリークはゆっくりと幼女に語りかけ始めた。
幼女が頷いたのを見ると、地面に膝をつき、目線を合わせる。
「貴方のパパとママはね、もう、貴方の前に姿を現す事はないと思うの」
率直過ぎるアンジェリークの言葉に、ヒュウガは驚いた。
もっと違った言い方をするものだと無意識の内に思い込んでしまっていた。
思った通り、率直過ぎる言葉は、幼子の顔をくしゃりと歪めてしまう。
「あ、……あえる、もん……」
「そうね、信じる事は悪い事じゃないわ。でも、貴方が泣いていても助けてくれなかったでしょう?今までこんな事、あった?」
本当は気付いているはずなのに、其れに気付かないフリをする。
ヒュウガは此処で漸く思い出した。
アンジェリークもまた、両親を失っているということに……。
だから、なのだろう。
気休めの言葉だけを、口に出す事がないのは。
そうされた事で一番傷付くのは、言われた相手なのだと知って居るから。
「お祖母様を心配させてまで迎えに来ようとしたパパもママも此処には居ないわ。そして、タナトスが居なくなったからと言って、戻ってくるものでもないのよ……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちている。
体中の水分が涙となって出て行っているのではないかと思える程に。
「死ぬってね、そう言うことなの。もう二度と逢えないのよ。自分の心の中にある思い出を、くり返し思い出す事しか出来ないんだわ」
――解っていたのだと、そう、語るように幼女は崩れ落ちた。
優しく愛してくれる両親に、もう逢えぬだろうということをを。
一切の悲しみを出し切るように、幼女は、泣いた。
泣き疲れて眠ってしまうまで――泣き続けていた。
「すみません、ヒュウガさん」
意識を失ったようにぐったりとした幼女を背負い、ウォードンへと引き返す途中、不意にアンジェリークが謝った。
「何がだ?」
「その子をおんぶさせている事と、――沢山、沢山泣かせてしまったことです」
アンジェリークが僅かに自嘲気味に笑ったように見え、ヒュウガは首を横に振った。
「いや、正しい事を行った。あのままでは、動こうとしなかっただろう」
正義であったとすら思える。
偽善的な言葉を吐くよりも幾分もこの子は救われた。
正しい方向に導く事――其れが、正義だ。
偽善は一時的な慰めにしか過ぎず、互いに傷付かぬような道を選んでいるだけ。
アンジェリークの行いは、正義であったと、ヒュウガはそう断言した。
しかし、其れに対し、アンジェリークは気難しい顔をしてみせる。
「こんなこと言ったら……ヒュウガさんに軽蔑されてしまうかもしれませんけど……私、本当は、その子をこのまま、森の中に置いていってあげた方が幸せだったんじゃないか、って思うんです」
紡がれた言葉は、ヒュウガには信じられないものだった。
幼い子どもが森の中に置いていかれれば、其の侭力尽きてしまう可能性も、タナトスに襲われてしまう可能性も低くは無い。
其れを承知で言葉を紡ぐアンジェリークを、軽蔑したわけではないが、「らしくない」と思ってしまった。
「何故?」
「……何れ子どもって、親元から離れて行くものです。其れが早かったり、遅かったり…納得できたりするものだったり出来ないものだったり、って。……でも。突然失った子どもにとってはちょっと違ってくるんですよね。其れ迄当たり前にあって、普通に笑いあっていたのに、ある日それがなくなるんです。……子どもの世界って、親が全てで……其れを失った時、表現できないくらい辛いものだって、私は思うから……。傍に居て欲しい、って思ってしまうものだから……」
だから、いっそ。
両親の傍に行かせてあげた方が幸せなのかもしれない――。
「……こんなの、偽善ですらない……酷い考え、ですよね? それでも、私……一瞬でも、そんなことを考えてしまったんです」
ヒュウガの背に追われた子を見遣るように視線を向けると、アンジェリークは泣き笑いのような表情をしてみせた。
確かに、其れは偽善ではなかった。
だが、それだって、間違っている事ではないのだとヒュウガは思う。
「其れも、一種の正義だ」
そんなことはある筈無いと、アンジェリークは緩々と首を横に振った。
其れでもヒュウガは、其れを正義とする。
「――正しい事に、違いはない……」
とは言っても、其れを実行することはない。
其れは、優しさであるのだろうとヒュウガは思った。
正義にも偽善にもなりきれない、其れがアンジェリークなのだろう。
不思議と、其れが良い事のように感じ、ヒュウガは小さな温もりを背に感じたまま、小さく笑んだ――。
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