平泉に残る事に決め、ゆるやかに時は流れ出す。
この日はそんな或る一日、七夕のお話――。
「……何をしている」
夜と言えど目を凝らさずとも解る。
自分の部屋に堂々と立てかけられている笹に、泰衡は半眼になり、望美に問い掛けた。
「え。七夕ですよ。ヒノエくんに態々持って来てもらったんですから。……こっちにも七夕ってあるんですね?」
きょとん、という擬音がぴったりな様子で、筆を片手に短冊に願いを書き込みながら望美は泰衡を見上げていた。
其れに対し、泰衡はそういう事を聞いているのではないとこれ見よがしに溜息を吐く。
「何故我が室で作業に勤しんでいるのか、と聞いている」
辛抱強く言ったつもりであったのだろうが、明らかに表情は険しかった。
だが、そんな泰衡の態度を一向に気にする風で無く望美はにっこりと微笑んでみせる。
「それは、泰衡さんにもお願いごと、書いて貰おうかなって」
此の無邪気な様子は意図的にやっているのか其れとも無意識なのか。
仕事で疲れた状態で見るには些か堪える、というのが男にとっては正直な話だった。
「結構。あなたが其の分も書けば良いだろう」
途端、目に見えて望美の顔が不機嫌になる。
つれない態度を取られた事への不満なのか、其れとも書かないと言った事への不満なのか泰衡には解りかねた。
「如何してそういう事言うんですか。私は泰衡さんにも書いて貰いたかったんです」
だから何故、と問い掛けて泰衡は止めた。
其処に恐らく理由は無いのだろう。
普段はそうでもないのに、時折酷く子どもめいた反応をしてみせる。
……そう、子どもだ。
子どもを相手にしていると思えば良いのだと泰衡は自分に言い聞かせ、深い溜息を吐き乍緩慢な動作で望美の隣に腰を降ろした。
「……一つだけで良いのか」
厭々そうな顔を隠そうともせぬままに、望美より差し出された短冊と筆を受け取った。
其れに頷いて肯定を示して見せながらも、望美は密やかに笑ってみせる。
眉間に皺を寄せながら短冊に願い事を書く男が、異様に可愛く見えたのだ。
一瞬だけ、何を書くか考えるように目を細めた後、さらさらと素早く文字を描いた。
「願い事、何にしたんですか泰衡さん」
どんな願いを書いたのか、望美は興味津々と言った風に泰衡の手元を覗き込もうとする。
しかしその動きを予想していたかのように、泰衡は極々自然な動作で短冊をすいと持ち上げ、筆を置いた。
「教える必要などあるまい」
言うや否や、納得していない望美の反論の言葉を聞く前に立ち上がり、笹の上の方へと短冊を括りつけた。
高い位置にある事と、夜という事で書かれた文字は望美からは見えない。
「ケ、ケチ……! 大人げないですよ泰衡さん!」
望美の抗議めいた言葉も何のその、泰衡は動じずに望美を見下ろした。
「大人げないとは心外な。あなたに合わせただけだ」
遠まわしに子どもっぽいと言われている事に望美は気付き、キッと泰衡を睨みつける。
だが、泰衡は謝る所か冷笑すらその顔に浮かべてみせた。
「……ナマイキ」
大の男を指して言う言葉にしては些か滑稽さを否めず、望美の言葉に思わず泰衡の笑みも苦いものにと変わる。
すっかり機嫌を損ねてしまった望美に向け、話を変えるかのように泰衡は口を開いた。
「古い時代の七夕は、祖先の霊を祀る盆に先立つ物忌みのための禊の行事だったと言われている」
聞いた事の無い話に、望美は泰衡に対して反発していたのも忘れ、不思議そうな顔で隣に立つ男を見上げた。
「みそぎ……ですか?」
繰り返された単語に、一つ頷いて肯定を示す。
「水辺の機屋に神の嫁となる女が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして穢れを神に託して持ちさってもらう祓えの行事だ」
其れが何時から転じてしまったのかは解らぬが、と付け加えるように話した所で、泰衡は望美の顔を見遣る。
望美は感心したように、聞いており、その機嫌が治っている事を泰衡は悟った。
「織姫と彦星が、一年に一度会える日だから機嫌良くして願いを叶えてくれるんだと思ってました」
素直な望美の感想に、少しばかり考えるようにして泰衡は首を捻った。
しかし其れも一瞬、記憶の糸を辿ると、思い出しながらも言葉を重ねて行く。
「織女が天の川の西に住む牛飼いと結婚し、二人は互いに夢中になってしまい、彼女は機織りの仕事をやめてしまい、男も牛を飼うことをやめてしまった、という話ではなかったか。それが天帝の怒りに触れ、引き裂かれ……泣き暮らす二人を、天帝もさすがに哀れと思い、一年に一度、七月七日の夜だけ逢うことを許したと…」
一年に一度、逢うと言う所迄は同じだと望美は頷き、泰衡の言葉を待った。
何故願いを短冊に書き願うようになったのか、其れも聞いた事があるような気がし、泰衡は指の背を唇に当てるようにして暫し思い悩む。
辛抱強く待っている望美は、その沈黙ですら楽しみにしているように耳を傾けていた。
「嗚呼、そうだ。織女が機織りの名手であることから女達が今宵織女の星に巧みさを授けてくれるように願う事が本来の形だと考えられていた筈だ」
それから、機織りが上達することを願うようになり、やがて短冊に願いを書くようになったのだろうと泰衡は説明した。
しかし此れも結局は俗説にしか過ぎ無いということも。
「結局は人間が好き勝手にやってることにしか過ぎないんですよねえ。……折角二人で居られる時間を他人の願いを叶える為には使えませんよね」
今頃二人は逢っているのだろうか。
そう呟いた望美を見て、泰衡は微かに笑った。
伝承を信じられる姿を無邪気だと、感じた。
「――織女の 袖継ぐ宵の暁は 川瀬の鶴は 鳴かずともよし……」
不意に泰衡の口から漏れた歌に、望美は不思議そうな顔をしてみせた。
「如何いう意味ですか?」
泰衡はその問いに答える事はせず、ただ曖昧な視線を望美に絡める。
そうして、誘うように緩やかに望美へと手を伸ばした。
「今宵は我が室で夜を明かすか?」
その問い掛けに望美は言葉も無く、ただ、頷いてみせた。
――翌日、泰衡の書いた短冊を見た望美は、烈火の如く怒り、素知らぬ顔をしている泰衡に罵声と飛ばしていたと言う……。
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歌の意→織姫が彦星と袖を寄せて寝る宵の暁は、川の瀬の鶴は朝を告げて鳴かなくてもよい。