「春は花 秋は月にとちぎりつつ 今日を別れと思はざりける……」

 夜の、其れで居て湿気を孕んだような生ぬるい風が頬を嬲る。

 今宵の月は、美しい。

 まるで夜の闇でも全てが見えているように翳り無い歩調。

 緩々と一歩ずつ庭を探索するように歩を進める。

 ――今宵の月は、美しい。

 穏かに眠る愛しい人の寝顔を見詰めた後だと云うのに、見た時はあれ程心穏かになったと云うのに、今ではその気配が微塵も残ってはいない。

 そぅっと、胸に手を添えると、己が対だった少女の面影が甦る。

 私は今幸せよ、と密やかに語りかけるけれど、良かったね、と返してくれるあの声は無いのだ。

 黒龍を、私を……本当の意味で救ってくれた貴女。

 何時の間にかずっと傍に居てくれているような、そんな気がしていたの。

 何れは元の世界に戻るのだと思っていながら、其れを信じられずにいたの。

 春も、夏も、秋も、冬も。

 隣で笑って、泣いて、励ましあって、支え合って……そうやって生きて行けるのだと、思っていたの。

 貴女がいない。

 ……貴女がいない。

 幸せである筈だのに、私は欲深い。

「望美、……私の、対」

 不思議な貴女が今此処に顕われてくれないのかと、ささやかな期待を込め、目を伏せる。

 そうしてみると サァ―― と、今までとは違う、心地良い風が吹き抜ける。

 まさかと思い乍、一抹の希望を抱き、瞼を押し上げる。

 ……目の前に広がるは、闇。

 誰も居ない。居る筈が、無い。

 もどかしいような、言葉では表現できないような思いが胸に込み上げ、きゅ、と正面を見据えた。

「……あれは」

 真正面にある木。

 此れは桜であったのではなかっただろうか。

 一瞬、桜の花びらと、彼女のイメージが重なる。

 此の暑い中、桜は咲いている筈はないのに、一瞬だけ、花弁が見えたような、そんな気がしたのだ。

 堪えきれなくなり、桜の木に近づくと、その幹に指を這わせた。

 触れていると、何処かほんのり暖かくて、泣きたい気持ちになる。

 悲しくも無いのに、涙が出そうになる。

「……桜、もう一度一緒に見たかったわ」

 まるで桜に溶け込むような貴女の姿を見るのが、好きだった。

 桜よりも何倍も強い貴女の傍に居ると、勇気が沸いていた。

「でも、もう、此処には訪れないのね」

 哀愁と呼ぶには空虚な感が強すぎる。

 唇を噛みしめ、押し寄せる感情の波に耐えようとしていた。

「……神子」

 小さな声が聞こえた。

 私を神子と呼ぶ、その人はただ一人。

 私の対のことではなく、私を神子と呼ぶ。

 そう、それは、たった……一人。

「黒龍? 如何したの、こんな時間に」

 夜も大分更けてしまった。

 見ると黒龍は先程寝顔を見た時のままで、裸足で庭に下りている。

 聡明な黒龍らしくないと思ったけれど、続く言葉に息を飲むことになる。

「消えてしまいそうだった」

 誰が、なんて聞くまでも無い。

 消えてしまいそうだったのは私。

 心を遠くに放ってしまいそうだったのは私。

 自分の対に逢いたいばかりに、私は何処かへ行きたがっていた。

 其れを、未だ少年の姿をした黒龍は、見抜いていたのだ。

 ――私は、行けない。

 貴女に逢いに、行けない。

 私には此処に、愛しい人が居るから。

「……何処にも行かないわ。だから、ほら、中に入りましょう? 足を綺麗にして、……一緒に、寝ましょう」

 まるで今までのことが夢であったかのように、名残惜しくも無く、私の手は桜の幹から離れる。

 ……桜は、夏の間から既に次の春に咲く花の準備をしているのだと言う。

 それならば、また、季節が巡り、見事な桜吹雪を見る事が叶うだろう。

 貴女が居た頃と変わらない、貴女のような、美しい桜が咲くのだろう。

 ――その光景を、黒龍にも見せてあげましょう。

 そう心に誓いつつ、黒龍の背を押し、館の中へ戻る為に歩き始めたのだった……。




【朔TOP】
【遙かTOP】


歌の意…春は花、秋は月の元で共に楽しもうと約束したのに、 この今日を別れの日とは思わなかったことだ

桜の花言葉は心の美、精神美、私を忘れないで、純潔など。

私の中で望美は桜のイメージが強いです。