温かい風に包まれる。

 春めいた日を選び、師は誘いの声を掛ける。

 鬼の一族が、存在している筈の場所へと――。

「以前約束したからな。お前は里から出たことがなかったのだろう? 正確な場所は解るまい」

「……此れから、行くのですか」

 まるで計画性のない発言に、少なからず質問にも呆れが混じってしまう。

 しかし其の事などまるで気にしていないように、師はひとつ頷いて肯定をしてみせた。

 行くのに賛同したのも確か。少しばかり困り乍もリズヴァーンもまた納得してみせたのだった。

「思うと、今まで一度も此処から出ることはなかった、ですし」

 そう。一度たりとも、だ。

 鬼の一族として生まれた者であるからこそ、人間の存在に並々ならぬ恐怖を感じる。

 恐れ、忌まれて来たのは鬼の一族であるのだというのに、滑稽な話だ。

 それに……。

 そっと、頬から顎に掛かり残っている跡を辿る。触れるだけで解る、皮膚の突っかかり感。

「…………」

 鬼であることは仕方のないこととしても、この傷だけは違う。

 思わず眉間に皺を寄せたところで、其れを察したのか師は少しばかり考えるように顎を擦ってみせた。

「まあ、人が其れ程通る道を行く訳でもないがなあ。……気になるのならば、ううむ、そうさなあ……嗚呼、そうだ。其処の棚にある布を使え」

 その言葉に従うように、棚から一枚の柄のついた赤銅色の布を取り出すと、少しばかり思案するようにリズヴァーンは布を見遣った。

 あるならばあると、何故早くに教えてくれなかったのか。

 そう思う反面、別段誰かの視線に晒される事はなかった為に、必要がなかったと言えば無かったとも思う。

「準備が出来たら行くぞ。余り遅く出て夜に着いても意味が無い」

 ――確かに夜にあの場所に行くのは好ましくない。

 何処か、自分よりも行く気が漲っているような師の姿を横目に、リズヴァーンは小さく苦笑したのだった。



 ――師の言った通り、裏の道に精通しているようで、人と逢う事はなかった。

 その事に些かの安堵を感じながら、未だ違和感を覚える口布を整える。

「嗚呼、此の道を抜ける」

 師の言葉に、一瞬身を強張らせつつも目の前の男は止まらない。

 獣道を掻き分けるように進み、低木を両の手で横に押しのけると途端、明るい世界が其処には広がった。

 陽光が眩しく、春風に乗ってふんわりと甘い花の香りがする。

「此処、は……」

 ……見覚えのある風景だった。此の道を真っ直ぐに進めば、あの懐かしい場所がある。

「――如何だ、お前の目に、美しく映るか?」

 敢えて、鬼の里までは進まない。

 其れは己の事を気遣ってのことなのだろう。

 外界から隔離されていた里は、未だ其処にあるのか滅びてしまったのかすら解らないのだから。

「……貴方は馬鹿だ」

 若し鬼の一族が存続していて、鬼であらざる者の姿が見つかれば危険だと言うのに。

 その危険に省みず己を此処に連れてきた。

 馬鹿だ、と言いながらも喜びの感情が、溢れ出そうになる。

 意味の無い事と解っていながら、掌で顔を覆い隠し、風に掻き消されてしまう程小さな声で言葉を紡ぐ。

「師匠――ありがとう、御座います……」



 その言葉に、師である男はただ、緩やかな笑みを静かに浮かべた。




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