「如何しても行くの? 神子……」
明け方のシンと静まり返った館の中、掛けられた声にビク、と体を震わせた。
「……白龍……」
緩く首を傾げ、真っ直ぐに此方を見詰めてくる白龍は、全てを悟っているように静かだった。
「九郎の為に、行くんだね」
掌の中に収まっていた、彼の人より預かった書状を握り締めそうになり、何とか押し留めた。
他の皆は未だ起きていないようだったけれど、白龍が少しでも声を出せば、皆起き出してくるだろう。
緊張からか、冷たい汗がつぅ、と背中を伝った。
「……神子が真に其れを願っているから、私は止められないよ。……そして、誰にも知られたくないのだと言うことも…解っている」
哀しげに言葉を紡ぎながら、其れでも何もかも諦めたように淡々と口にする。
その決意が嬉しかった。その覚悟が哀しかった。
白龍は真に自分を慕っている事を知っていながら、其れでも命の危険を賭して一人の八葉を助け出そうとしている。
「ごめん。ありがとう白龍……」
自分の選んだ神子を失うかもしれないという恐怖に耐えながら送り出してくれる。
「ただ、……約束して、神子。……必ず、無事で帰って来て……」
哀願のようにすら響く白龍の声は、酷く心を揺さぶった。
外見が変わろうとも、その無垢で懸命な心は決して変わらない白龍。
その大きな掌にそっと触れて、力強く頷いた。
「約束する。……だから、皆と待っててね、白龍」
うん。と泣きそうな顔で頷いた白龍の傍から離れ、館を抜け出した。
今、白龍に告げた言葉…それは、自分に言い聞かせる言葉でもあった――。
「鎌倉殿へ面会を。……開門を願います」
頼朝が居るとされる館へと足を運び、門番に向けて言い放つ。
しかし、門番は首を横に振り、きっぱりと断りを入れる。
「早朝から何かと思えば……。何にせよ、貴方をお通しするような命は受けておりません。お引取りを」
――此処で引き下がってしまっては、白龍の決意も、全てが無駄になってしまう。
ギリ、と歯を食いしばりながら、剣の柄に手を掛けた。
「通さないと言うのならば、力尽くでも」
貴方方を切り捨てる事に何も躊躇いもない。
その覚悟は気迫として滲み出ていたのか、門番達が怯むのがわかる。
その時だった。
中から門が開いたのは――。
「鎌倉殿のご命令です。神子を直ちに通すように、と」
何処からか漏れ聞いたのか、既に頼朝は源氏の神子の到着を知っていたようだった。
……今まで、逢おうともしなかった態度を一転させて。
其れが決して好意的な出迎えでないと知りつつも、もう、他に道はない。
進まなければ、勝ち取らなければ、未来は存在しないのだから。
大きく息を吸い込んでから着物の間に挟み込んだ書状を見下ろした。
……九郎さん、私は貴方を必ず、助けます。
「――来たか」
重い声が、室内に響く。
部屋の中には源氏の兵達が控えていた。
何か動きをしたら、即座に反応出来る位置に。
「……九郎さんは、謀反を企んでなどいません。……この書状を見ていただければその気持ち、解ると思います」
「見る必要など無い。あれは謀反を企んだ張本人。弁明の余地などありはせん」
渡そうと懐に入れた書状を取り出した所で反論する隙も与えぬような口調で言い切られる。
その事に、頭にカッと血が上った。
「其れでも九郎さんのお兄さんなの!貴方は、如何してそう他人を信じられないの……っ!」
食い掛かるように一歩、詰め寄ろうとすると、頼朝の隣にいた女性がくすくすと笑った。
「まあ、怖い。……勇ましいのは宜しいですけれど、分と言うものを弁えなさいな」
何をしたのか、瞬時には解らなかった。
ただ、次の瞬間には私を取り押さえようとしていた源氏の兵達がぴたりと動きを止めたのだ。
「な……っ?!」
思わず勇み足を踏み、状況を把握する為に周囲を見渡す。
其の隙を狙うように、女性――北条政子は、私に近づき、白龍の逆鱗を奪い去ったのだった。
「これを持たれたままだと、少し困ってしまうの。本当ならばこの力、欲しい所だけれど……」
ふっくりとした形の良い唇で笑みを作りながら、逆鱗を掲げてみせる。
「貴方に使われるよりは、ましよね」
艶やかとすら取れる表情で、女は笑った。
そうして、ほんの少しだけ力を手に込めたとしか思えないのに、白龍の逆鱗は…粉砕した。
「あ……ッ」
「ほぅら。此れでもう貴方は九郎を助けられぬただの可愛らしいお嬢さん。ねぇ、此れから如何するのかしら?」
挑発するように目を細め、私を見下す。
よくもよくもよくもよくもよくも…!
あれがあれば、時空を越えて運命を変える事が出来たかもしれないのに。
書状が掌から零れ落ち、気付けば無意識の内に剣を構え、たった今逆鱗を壊した女の腹部に向けて突き刺そうと動いていた。
「まあ、人間如きがわたくしを傷つけられると――?!」
悠然と微笑んでいた女の表情が一瞬にして凍る。
足元に散った逆鱗の破片が輝き、女を包み込んでいた。
「……このっ……!」
最期の力を使い、逆鱗の破片が女の力を奪ってくれたのだろうか。
そう、考える間も無く、鋭い刃が着物を通り越し女の腹部を貫通した。
ずぷり、と怨霊ではありえない生々しい肉を裂く感触がする。
ぬめりを帯びた赤い液体が、ぽたぽたと床を濡らし、真っ白だった九郎さんの書状も血で染めていった。
「小娘……!」
もう、この女は死んでしまう。
そう確信を抱けた所で漸く剣を引き抜いた。
世界がずれる。
以前にも体験した、時間を止めた世界の終わりだ。
その世界が完全に幕を降ろす前に頼朝の方へと駆け寄った。
途中で剣を振るい血を払い落としながら、時空軸が元に戻る瞬間に、頼朝の首に刃を添える事に成功した。
「御台様……!」
兵達の慄いた声が聞こえる。
「動かないで下さい。……動くと、この人の首が飛びます」
手がじっとりと汗を掻き、剣が滑りそうになる。
其れを、剣を首筋に添えたまま懸命に堪えていた。
自分の首筋に剣が添えられているというのに、まるで動じた風でない頼朝は、一体何を考えているのか。
ただ、血塗れた床に伏せた女を見つめていた。
「……景時、さん。今から九郎さんを逃がして、そして、二度と追い駆けないように手配して下さい。他の皆にも、危害を加えぬように」
そうしなければ、今此処で男の首を跳ねると言外に告げ、指示を飛ばした。
彼ならば、恐らく。
……恐らく、皆が死んでしまう事を真に望んでいない筈だから、何とかしてくれるのだと思う。
「……の、望美、ちゃん……」
愕然とした表情で北条政子と私を見比べるのみの景時さんの動揺は、計り知れなかった。
「……行け」
溜息のように紡がれた言葉は、今命の危機に瀕している男から発せられたもの。
弾かれたように返事をして、身を翻して行く姿を見送るまで、誰も微動だに出来なかった。
……そして、景時さんの姿が消えた時、一瞬気を抜いてしまったのだと思う。
突然に、脇腹に鈍い痛みを感じる事になった。
「……え……?」
視線を向けると其処には、這いずりながらも腕を持ち上げ、最早紅か血か解らぬような赤い唇を吊り上げて笑う女が居た。
――放たれた術は、…最期の力を振り絞った、攻撃。
脇腹の痛みに耐え切れず、剣を取り落とした私を源氏の兵が囲み、取り押さえる。
動かずに居れば助かったかもしれないのに…これは、彼女の私に対する報復なのだろうか…?
――いや、違う。
私に向かって術を放った手は、最早私には向けられておらず、ただ一人の男へと向かい、伸びていた。
その名を呼ぼうとしているのに、それは音になって出てはこない。
……自らの命を削ってまで、守りたかった。
何だ、自分と一緒ではないかと笑いたい気分になる。
じんわりと私の血が床を濡らし、広がっていっていた。
女の体が崩れ落ちるのを見たのと同時に私の世界も暗闇に飲まれた――。
目を開くと其処は、薄暗い牢の中。
鈍く痛む横腹を押さえるようにして身を起こす。
何故、自分は未だ生きているのだろう。
荒い息を吐きながら壁に寄り掛かり、膝を抱え座り込む。
頭がぼんやりとする。
傷の所為で熱が出たのかもしれない。
暫くの間そうしていると、微かな靴音が聞こえ、其れは牢の前で立ち止まった。
「望美ちゃん……」
聞きなれた声に、ゆっくりと頭を持ち上げ牢の外を見遣った。
「……処刑が、決まったよ。……民衆にも見える場所で、君は……打ち首にされる」
暗い牢の中、静かに死刑宣告をする景時さんの声が聞こえる。
嗚呼、戻って来たのだと隅の方で膝を抱えたままぼんやりとした頭で考えた。
「……九郎さん達は……?」
こんな時なのに、自分の事よりも彼らの方が気にかかってしまう。
「ちゃんと逃げれたよ。オレも、皆に生きて欲しいからね。……本当は、君にだって……」
其れ以上の言葉を紡ぎきれないように、言葉を切り、語尾が尻すぼみになって消えた。
「――望美ちゃんは、後から追って行くって、伝えた。……多分、君が処刑されると聞いた頃に戻ろうとしても…もう、間に合わない」
一度も目を合わせる事なく、景時さんはそう口にする。
その時の私は、多分微笑んでいたのだと思う。
「そう、ですか。有難う御座います。良かった、景時さんが、源氏の内部に居てくれて……」
「そんな事言わないでくれ! ……君一人助けられなくて……オレ、……オレ、は……」
……牢屋越しに、景時さんの悲痛な声が響く。
幾度となく「ごめん」と謝罪をくり返し、くり返し――、自分を責め続けた。
私はただ、謝らないで下さい、と……言い続ける事しかできなかった。
――迎えた最期の日は、土砂降りの雨だった。
まるで、白龍が神子の死を嘆くかのように、激しく雫が打ち付ける。
腕を後ろに回され、きつく縄で縛られる。
其処から伸びた一本の縄を引き、私を処刑台へと連れて行く。
……こんなに激しい雨だと言うのに、公開処刑場には大勢の兵と、民衆の姿があった。
私に座るように指示した後、白い布を目に被せようとする。
其れを拒否するように私は首を横に振った。
「いいえ。……いいえ、目隠しは必要在りません」
か細いながらも凛とした声が、雨の降る処刑場に響いた。
「しかし……」
「そんなものがなくても私は避けようとしたりしませんよ」
きっぱりと断言してしまえば、執行人は戸惑いながらも一つ頷き、すらりと刃を構えた。
私はただ、正面の、屋根のある場所に立ち続けている男を睨みつけるように見詰めていた。
源頼朝は、平静だった。…表面上は、の話だが。
北条政子を奪った私を見詰める目には明らかな憎悪と嫌悪の炎が揺れていたのだから。
止め処なく降り続ける雨が、刃を濡らす。
濡れた刃では綺麗に首を切り落とすことなど出来ない為に、執行人は何度も布で雨の雫を拭う。
けれども、打ち付ける雨が直ぐに刃を濡らすのだ。
「………構いません。首が落ちるまで、何度でも叩き付けてくれても」
静かに言い切ったところで、周囲からすすり泣く声が聞こえ始めた。
ふと其方を見てみると、今まで幾度も共に戦ってきた源氏の兵達が見えた。
棟梁である男の手前、泣いてはならぬのだと嗚咽を堪えながらも、其れでも、隠し切れずにいる。
源氏の神子と共に戦ってきたから、悲しみを隠せないでいるのだ。
それに釣られるように町の見物人達からも、顔を覆い出す人が出始めた。
自分ひとりの為にこんな風に会話を交わした事も無い人が泣いてくれて居るなんて、思いもしなかった。
「……言い残す事はないか。遺言くらいは聞いてやろう。……政子にはその猶予も与えられなかったがな…」
押し殺した低い声は、雨に交じると聞こえ難い。
顔をまっすぐに上げて、打ち付ける雨をものともせずにきっぱりと言ってみせた。
「約束を、守って。其れ以外に言うべき言葉はない」
九郎さんを、死なせないで。
其れが私の望む最後の願い。
「……構わん。討ち取れ」
男の指示が、執行人に飛ぶ。
声が裏返りそうになりながら返事をした執行人の手は、震えていた。
言い残す事など、何がある?
伝えたいのは貴方じゃない。
「……吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の あとぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し……」
剣が持ち上がる気配を感じる。
「――やれ」
“鎌倉殿”の声を合図に、フォン、と空気を切る音が聞こえる。
周りの慟哭が、一層高まる。
後悔はない。
この命を差し出す事で皆が助かると言うのならば。
……嗚呼、でも…気懸かりな事が、ひとつだけ。
あの人は、如何言った形でこの処刑の報せを聞くのだろうか……?
あの、優しい人はきっと、泣いてしまうのだろう。
「昔を今に……なすよしもがな……」
あともう一つだけ願いを叶えてくれるのならば……
この雨が私の血を洗い流してしまうように、
如何か……あの人の悲しみが、少しでも和らぎ、流れていきますように―――。
そうして、私の世界は…多くの人に見守られながら、奪われたのだった。
私は後悔しないように生きた。
貴方が生きていける世界がある。
私は、それだけで…十分幸せ、です…。
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