謀反など、企む筈も無かった。

 源氏の為、兄上の為と戦場に出る事には躊躇う事などある筈も無い。

 寧ろ政治の事など良く解らぬ俺が役に立てる場は、戦しか無かったのだ。

 兄上は誤解なされているだけなのだと、自分に言い聞かせ続けていた――。




 牢に閉じ込められて幾日経ったのだろうか。

「皆に迷惑をかけてしまったな……」

 緩く伏せた目蓋の裏に思い浮かぶのは、平家との戦で共に在った女の顔。

 平素は言い合っていたり、笑い合っていたり……そういったものばかりであった筈なのに、
 今浮かぶのは最後に逢った時の切ない表情だけ。

 せめて、笑い顔を思い出したいと言うささやかな願いすら叶わない。

「無茶を、していないといいが」

 時折破天荒なことをしでかす所が在り、少々気が強い。

 だが、誰よりも優しい奴だ。

 きっと、兄上に対して並々ならぬ怒りを感じているのだろうと考え、顔に僅かに笑みが
 戻って来た。

 この場には居らぬというのに、酷く存在感の在る娘だ……。

「望美……」

 返事などある筈ないと解っていながら、小さな声で呼び掛けてみる。

 音に出してみると、少しだけ心が温かくなるような気がした。

 牢の中から外の様子を窺い知る事は叶わぬ。

 其れでも、少しでも外の気配を感じたくて緩やかに目を伏せた。

 ――ほんの微かに、耳に届く蹄の音がある。

 其れが何かと考えるより前に、牢番達が俄かに騒ぎ始める。

 程無くして、蹄の音が近くなったかと思うと僅かに聞きなれた声が聞こえて来た。

 そうだ、あれは――。

「景時……?」

 間違えようもない、彼の人物の声。

 何故こんな所に居るのかと顔を上げた所で丁度景時が姿を見せた。

 その表情は焦りと、何やら複雑な思いが入り混じり苦しげにも見える。

「九郎! ……良かった、元気そうで。……今直ぐ彼を出してくれ」

 景時は俺の姿を認めると安堵のような溜息を零した後、牢番に向けて一言指示を飛ばす。

 顔色は蒼く、口調にも些か動揺が見え隠れしていた。

 ……牢から出されると言う事は、疑いが晴れた、と……そう言う事なのだろうか。

 だとしたら、己が望美に託した手紙は自分の兄に見届けられた筈だ。

 しかし、そうだとしたら、何故――。

「九郎、早く。九郎の馬を連れてきて居るから、京を抜けるんだ。他の、鎌倉に居る皆も直ぐに追い駆けさせるから…」

 何故急ぐ必要がある?

 ――何故、京を離れる必要がある…?

「景時……一体如何言う事だ」

 牢が開かれ、距離がぐっと近くなる。

 俺の問い掛けに漸く景時の瞳は落ち着きを取り戻した。

 そして、緩やかに息を吐く。

「嗚呼、ゴメン。解り難かったよね……。……端的に言うと、鎌倉での九郎の疑いは晴れた」

 益々解らなくなる。

 ならば何故、と問う前に、景時は其れで終わりでは無いと言うように言葉を続けた。

「だけど、源氏の頂点に立つ者として九郎は見過ごせ無い。――だから、処刑が決行される前に逃げろとの仰せだ」

 其れが、兄上の御温情なのか。

 聞かされると急に身体の力が抜けた。

 ――最早兄上のお役に立つことは叶わぬが、此れも又仕方の無い事なのだろう。

 不思議と虚無感は無く、あるのは安堵と達成感。

 俺一人で逃げたとて、共に行動をしていた者達は明らかに立場が悪くなるだろう。

 ならば、共に何処までも行けば良い。

 皆を巻き込んでしまった形になってしまった事は申し訳無かったが、此れで良かったのだと思う程だった。

 剣も持って来た、と景時は鞘に収まった剣を俺に差し出した。

「礼を言う景時。……望美は?」

 一番気懸かりだった人物について問い掛ける。

 此れは望美の功労であると言っていい筈だ。

 望美に託した俺の運命は、望美によって開かれた――。

 今ならば、もう手を掴んで、離さずに居ても良いのだ。

 景時には申し訳無いが…真っ先に駆けつけてくれるのは、望美であると思っていた分、多少残念だったのも確かだ。

「望美ちゃん、は……。皆と一緒に九郎を追い駆けて行くよ。……ほんと、望美ちゃんは凄いよね」

 おどけるように笑ってみる景時は“何時も通り”だ。

 其の事に些かの安堵を覚え乍、一つ頷いておく。

 皆と合流できるような位置の避難場所を早口で説明される。

 ……景時が余程急いで居るのだと伝わって来た。

「嗚呼、解った。……景時は……」

 如何するのか。

 聞き難い問いであったし、答え難い問いであったと思う。

 だからなのだろう。

 景時は、自分は行けないと言う風に曖昧に笑い、首を横に振ってみせた。

「オレだって、ほんとは皆と一緒に行きたいよ。けど、……」

 其れ以上の言葉は紡がせてはならぬと思った。

「……すまない」

 景時は、構わないと云った風に笑み、俺を促す。

 牢を出ると、久しく見ていなかったような外の世界が広がった。

 主の顔を忘れていなかったのか、愛馬が鼻面を摺り寄せるように懐いてくる。

 褒めるように愛馬の首を撫でると、小さく、嬉しそうに嘶いた。

 今までと同じ様に、馬に跨ろうとしたが、途中、僅かにふらついてしまった。

 牢に入れられていた事で体が鈍ってしまったのだろう。

「では、俺は行く」

 逢うのは此れが最後かも知れぬと解っていながら、気の効いた台詞の一つも出てこない自分に嫌気が差す。

「……ッ、九郎……!」

 馬に乗っている俺を自然と見上げる形になった景時が、悲痛な面持ちで名前を呼ぶ。

 その様子に戸惑った。

 だが、中々その先の言葉が紡がれず、堪えられなくなってきた所で、景時がゆっくりと視線を逸らした。

「――……無事、で…」

「……嗚呼。……また、逢おう。景時」

 送り出してくれる言葉は、安否を気遣うものなのだ、と。

 俺はそう信じて疑わなかった。

 ――景時がこの時、別のことを言いかけていたなどとは、露とも思わなかったのだ…。



 ――九郎を乗せた馬が、地平線の彼方へ消えた頃、景時は漸く長い長い息を吐き、顔を覆うように片手を持ち上げた。

「……嘘ばっかり上手くなって…ほんと、厭になる……」

 涙声で呟かれた台詞は、駆けて行った九郎に届く筈も無く、只、静かに風に胡散した――。



 数日後、雨が降りしきる中、俺は他の者達と合流した。

 だが……、其処に望美の姿は無かった。

「……兄上は、望美は九郎殿と一緒に居ると言ったのだけれど……」

 口調から動揺が伝わってくる。

 如何贔屓目に見ても、景時が偽りを言っていたとしか思えない。

 ……意味の無い嘘など、吐く筈は無いだろう。

 ならば、一体……。

 ……厭な予感がした。

「――引き返そう」

 考えたくは無かったが、そう思うしかない状況になった。

 望美は、何らかの形で兄上の下に捕らえられている。

 俺の言葉に反対する者など居なかった――。



 途中に寄った村で、村人が囁き合っているのが厭が応にも耳に入ってくる。

 その内容は、耳を塞ぎたくて堪らないものだった。

 ―おい、聞いたか……?

 ―嗚呼、あの話だろ。源氏の神子が……。

 ―鎌倉様の怒りを買って処刑だとか。

 ……処刑。

 何故…何故…っ!

「何故なのですか、兄上……ッ!」

 叫ぶ声は、激しく打ち付ける雨に遮られるように届かない。

 何があったのか、解る筈も無い。

 ただ、解る事は…望美の命が絶たれようとしている事だ。

「九郎……僕らの馬は、此れ以上走れません」

 青褪めた面持ちながらもはっきりと事実を告げる弁慶が居る。

 ……先に行けと、言っているのだ。

 名馬として知られる俺の愛馬は、未だ気力を失っては居ない。

 俺と共に背に乗せ、崖を駆け下りた望美の事を覚えているかのように、早く進もうと促しているように錯覚する程に。

「早く行って下さい九郎。……望美さんを、助けてあげて下さい――」

 皆の、真っ直ぐな視線を受け、俺は大きく頷いた。



「……無事で、在ると良いのですが」

 弁慶は小さく溜息を吐いた。

 近隣とは言え、村にまで話が伝わってきている。

 間に合う可能性は低いと言って良いだろう。

 雨に打たれながら弁慶は天を仰ぐ。

 そして、其処に在ったもの見て大きく目を見開いた。

「……あれは、まさか……!」

 言い様のない不安が胸を駆け巡り、弁慶は皆の元へと駆けた。

「……白龍、は……?」

 皆の顔を見渡して見ても、其処には白龍は居なかった。

 ならば、今僕が見たのは矢張り白龍であったのだ、と弁慶は愕然とした。

 天に舞い上がって行った姿は、最早人を模しては居なかった。

 龍としての本来の姿で、飛び去ったのだ。

「……何故……、今……」

「――神子の内に在った力が、還ったのだろう」

 リズヴァーンが重苦しく言葉を紡いだ。

 其れが如何言う事か、聞かずとも弁慶には解ってしまった。

 五行の解放。

 今、其れが示すのは、神子であった者が人であらざる者になったということ。

 ――つまり。

「……望美さんは、死んでしまったんですね……」

 弁慶が口に出して言った途端、放心状態であった朔は泣き崩れてしまった。

 誰も、もう口を開くことが出来ずに居た。

 信じていたものが足元から音を立てて崩れ落ちて行く。

 九郎は望美の死を、何時知る事になるのだろうか。

 ……その答えは、出る筈も無い。

 雨は益々酷くなり、雷鳴すら轟き始めていた。

 ――其れは、まるで龍神が自分の神子の死を嘆いているようですら在った…。



 激しい雨の所為で、馬上で目を開けている事すら困難だった。

 しかし幾ら悪天候だと言えども奇異な程に街に人気がない。

 特別な行事は、行われていない筈だ。

 ならば、可能性があるのは――。

「望美……」

 無事で居てくれ、と心より願う。

 泡を吹きそうになっている馬に、あと少し頑張ってくれと語りかけながら、処刑場に向かい馬を駆る。

「ッ! 止まれ…!」

 ばしゃ、と泥水を跳ねながら馬の速度を急激に落とす。

 不自然な程に人が集まっている。

 人垣により中心は見えないが、囲んでいる人々が、顔を覆っているのだけは見えた。

 ……まさか。

 信じたく無かった。

 馬から降り、重い足を引き摺るようにして人垣の中に割り込んで行く。

 最初は本当に掻き分ける、というのが正しかったが、俺の姿を認めると人々は、道を作るように場所を空けた。

 ――信じたく、無かった。

 ぽっかりと空けられた中心に、望美が倒れこんでいた。

 嗚呼、如何して皆助け起こしてやらないんだ?

 民も、……共に戦った源氏の兵も、雑兵も、皆、皆…泣いているじゃないか。

 如何して、誰も手を貸してやらないんだ?

 冷たく激しい雨に打たれ、ぐったりとしているじゃないか…。

 何時まで望美を晒し者にしているつもりだ?

「……嗚呼、……そう、か」

 意味の無い事、だからか。

 もう、望美の胴体と首は…離れ離れになっているのだから。

 もう……動く事は出来ないのだから。

「……九郎」

 耳に届く声は、敬愛していた兄上のもの。

 だが、今ではもう聞いたとて何の感慨も無い。

「……兄上、……何故、……何故……望美を処刑したのですか……」

 一歩一歩、雨に打たれながら只望美に向かい、歩いて行く。

 可哀想に、…綺麗だった髪も、顔も、雨に濡れ、泥だらけになっている。

 せめて此れ以上濡れはせぬようにと、転がっている首を拾ってから、其の身体も抱き寄せた。

 冷たい雫に混じり、熱い雫が頬を辿るのが解る。

 嗚呼、俺は泣いているのだ、とそう自覚した。

 雨と違い、涙と言うものは何と温かいのだろうか――。

「――神子は、政子を殺した。……私が憎いか、九郎。私を殺したいか、九郎。……ならば、その剣で挑めば良い」

 そう答えた兄上の顔を、見上げる事は出来なかった。

 恐らくは此処で剣を持ち、立ち向かえば紛う事無く謀反人として俺の事を討てるからか。

 憎くないと言えば嘘になる。

 殺したくないと言えば、嘘になる。

 俺は、望美の身体をそっと地面に横たえると、剣を鞘から引き抜いた。

「九郎様……! お止め下さい! 我らは九郎様を討ちたくありません!」

 兵達の中から声が上がる。

 誰もが皆、望美の死が本意ではなかったことが解ったような、そんな気がする。

「……兄上、私は……源氏の為、ひいては兄上の為にと……、この腕、振るおうと誓いを立てておりました」

「九郎様!!」

 悲鳴に近い声が、聞こえる。

 声に応える事もせずに、俺は剣を左手に持ち替え、己の右の肩関節の隙間に押し当てた。

 腕に渾身の力を込め、――切り落とす。

 幾ら切れ味の良い剣とは言え、人体を切り落とすようには作られていない。

 ぐぐ、と力を込めて漸くぼたりと腕が地面へと落ちた。

 其れを見届けて、指を開くと剣も緩やかに水浸しになった土の上に落ちて行く。

 何故か痛みは無かった。

 最早俺は死んでいたのかもしれない。

 血の赤が雨に混じり、半透明な水溜りを真下に作る。

「我が剣は、源氏の、兄上の為に振るおうと、決めた………もの。……しかし、最早私は……兄上には仕えられま、せぬ。こ、の……腕、……置いて、まいり、ます……」

 兄上を殺しはしない。

 源氏の為や、己が殺したくないからではない。

 憎い気持ちも、殺したい気持ちも確かに存在したが……

 ―――もう、何もかもが如何でも良かった。

「……嗚呼……しまった、な……」

 決別のつもりで腕を切り落としたのに、直ぐに後悔した。

 此れでは、望美を抱き上げる事が出来ないではないか。

 多少乱暴になってしまうことを心の内で謝罪しながら、望美の胴体を左肩に担ぎ上げるようにし、一旦、近づいて来た愛馬の馬上に乗せる。

 そして目を伏せ、うっすらと唇を開いた顔を左腕で抱き上げた。

「――……行くぞ、望美」

 容赦なく打ち付ける雨が体から体温を奪って行く。

 腕を切り落とした肩から血が抜け落ち、体力を奪って行く。

 だが、気にはならなかった。

 不自由になった片手を庇うようにして騎乗し、馬の腹を蹴り上げ走らせ始める。

 ――行ける所まで、行こう。

 もう剣を振るわずに、笑って暮らせるような場所へ行こう。

 其処でまた、下らない事で喧嘩をして、意地を張り合って…仲直りを、しよう。

 我らは漸く糾うことが出来るのだから。

 雨を身に受けながら思い描く“未来”は、幸せ其のもので――俺は、愉快さを抑えきれずに“嗤った”のだった――。




 ――文治五年、四月三十日。

 奇しくも史実での源義経が自害をしたと同じ日に、龍神の神子の亡骸を抱え、行方不明となる。

 この日より九郎の姿を見た者は、存在しなかった――。





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【遙かTOP】





※糾ふ(あざなう)…二つのものを一つにより合わせる。