いつの間にか嗅ぎ慣れた海のにおい、いつの間にか見慣れた空の色。
大きく息を吸い込んでみると、矢張り空気ですらも身体に馴染んでいるように感じる。
嗚呼思いの外自分はこの地が好きだったのだと自覚すると同時に少し寂しいような感情がじわ、と滲んでくる。
そんなのは今更だ。
決めたのは自分自身で、其れを曲げるつもりがないのも自分自身。
眼下に見える海をじっと見詰めていても、其れは決して頭から抜けることはなかった。
「――望美」
呼びかける声が僅かに哀愁を帯びていたのは彼が全てを知っているからだろう。
出会った頃より年数を重ねた分、幾分も落ち着いて耳に心地よく届く筈の声は今となってはちくりと仄かに胸に痛みを与えるものにと成り果てた。
「……明日だよ」
彼に返す自身の声も、以前より些か大人びたのかもしれない。
昔とは違う甘さを孕んだ声音だ。
けれど紡ぐ言葉は決して甘いものでは無い――少なくとも、今の二人にとっては。
「明日、元の世界に戻ろうと思う」
そう宣言しても彼は引き留める言葉を持たない。
二人で過ごした年月は人生と言う長き目で見れば永遠とはほど遠いものだったが、短かった、と割り切れるほどのものではなかった。
愛していないわけではない。寧ろあの頃よりもずっとずっと愛している。
だから元の世界に戻りたいと言うのは単なる我が儘なのだ。
熊野を愛している彼の傍に居るのが辛くなったからなのだ。
「……そっか」
全ての言葉を飲み込んで、納得した素振りを見せる。
埋めようのないものが間にあるのを悟ってから、彼はずっとこんな態度なのだ。
「引き留めないの?」
意地悪だと解っていても問わずにはいられない。
「そんな権利、無いよ。――お前が其れを望むのなら」
返ってきた答えは非常に予想通りで、どんな顔をして言っているのかとじ、と彼を睨むようにして見据えた。
……少しだけ困ったような、苦しむような、そんな顔だ。
「ヒノエくんってそういう所、卑怯だと思う。肝心なところは何時も私に選ばせてた。……私は今まで其れが優しさなんだって勘違いしていたけど、そんなの全然優しくない。……引き留めるのか、元の世界に戻れって言うのか。それくらい、自分で決めて」
刺々しい声になるのを止められず、非難するように言葉は口から放たれる。
解放して欲しい。愛に捕らわれた惨めなこの身を。
赦して欲しい。再び前を向いて歩いて行くことを。
――長らくの沈黙の後、彼は重い口をゆっくりとゆっくりと開いた。
「お前が熊野に留まってから、ずっと拭えない違和感があった。お前らしくなくなって、……多分、お前は此処に留まるべきじゃなかったんだよ。…………お前はもう、自由だよ。熊野にも、オレにも縛られるべきじゃない――元の世界に、戻れ」
泣きそうな顔で、彼は宣告した。
漸く言ってくれたその言葉に不覚にも涙が溢れ出し、こぼれ落ちる。
これでやっと、諦めがつく。離れる決意が出来る。
嫌いになったわけじゃない。
寧ろずっとずっと愛情は胸にあった。
――想い合っていても、幸せになれないことはあるのだ。
「……馬鹿だよね、お互い。もっと早くこうしてれば良かった。私もヒノエくんも、ちっとも幸せじゃなかったんだもの。最低、何でヒノエくんを選んじゃったんだろう。何年もかけないと真実にたどり着けないような男、こっちから願い下げ。ばいばい、もう、きっと二度と会うことはないと思うけど。嗚呼こんな男がいたんだな、ってことぐらいは覚えてあげてても良いよ。本当に、馬鹿な男」
罵る言葉も上手く言えない。
ずっとずっと練習してきたのに。
そっと伸びてきた彼の手が頬を捕らえ、互いの唇が重なる。
――さいごの、接吻。
其れは涙の味がして、きれいな形には終わらないものなんだって場違いにも思った。
掌で熱を帯びる逆鱗を握りしめ、最期の言葉を吐息のように紡ぎ出した。
彼の耳に届くかどうかは解らない、……私の、さいごの。
「――でも、大好き。これからは、貴方が生きたいように、生きて」
【ヒノエTOP】
【遙かTOP】