私は無力だと、こちらの世界に来てから幾度思ったことだろう。
此迄の私の強さは、未来を知っているからこそでしかなかった。
未来を知らぬ私は余りにも無力。
……余りにも、力が足りない。
――奥州の人たち……いや、泰衡さんは裏切らず、寧ろ皆を庇うように尽力してくれていた。
だからと言って私たちに良いように事が進むわけでもなく……次第に逃げ場は失われて行く。
そんな折、弁慶さんは言った。「策があるから皆は先に逃げるように」と。
弁慶さん一人残るのでないと其の策は成功しないのだと。
……そんな策、ありはしないだろうに。
何時の頃からか私は弁慶さんが嘘を吐いているか否かが解るようになっていた。
まるでさも本当であるかのように弁慶さんは語る。
皆の信頼を知ってこそ、彼は其のように嘘を吐く。
一人で残るつもりなんですか、足止めをするつもりなんですか。
聞いてもきっと、はぐらかされてしまう。
そんなこと、解ってた。
だから私は皆と共に行くフリをして、密やかに。弁慶さんの傍にいるために残ったのだった――。
「弁慶さん!」
雪の舞い落ちる中、弁慶さんはただ背中を向けて立ち尽くしていた。
其れは揺るぎない決意を秘めた人の背中。
私は、そんなものを見たいわけではない。自分の身を呈して皆を無事逃がすような“英雄”になって欲しいわけじゃない。
「望美さん!? 何故君が残っているんですか!」
鋭い叱責さえも何も恐くない。私が恐いのは、もうあなたが死ぬ事だけ。
「弁慶さんこそ、策というのは此処にこうして立って居るだけで成るものなんですか」
問い返すと弁慶さんは僅かに視線を逸らした。
私が全て解っていることを、悟ってしまったのだろう。
「私はあなたの傍に居ます。今度こそ、……共に、此処で息絶えるのだとしても、離れたくない」
生きて、二人で幸せになりたい。
それが何よりの願いだったけれど。
「今度――? 君は、まさか」
もう厭だから。あなたが死んで行くのを見るのを見るのは厭。
やり直したこの世界ですら幸せになれぬのならば……。
「此の逆鱗を使い、時空を越えて……あなたと共に生きる道を探しました。……此れがその結末なら、弁慶さんと一緒なら、私は其れでも構わない」
私は、運命を受け入れても構わない――。
弁慶さんは何か言いたげに唇を開き、閉じる。
一度視線を下に落とし……再び顔を上げた時、彼は、ただ、冷たい微笑を浮かべていた。
「望美さん、勘違いさせてしまったのならすみません。……けれど、君が僕と共に死んでも良いというのは――迷惑です。早く其の逆鱗を使い、何処かへ行ったら如何ですか」
緩々と紡がれる拒絶の台詞は此の上なく残酷。
本気とも嘘ともつかぬ真剣みを帯びた口振りは私の心を揺さぶるのには十分だった。
……でも。弁慶さんの瞳の奥には哀しい光が宿っていて、其の言葉が私を生かそうとする為のものだと解る。
嗚呼、あなたはこんな時ですら、そんな風に自分を偽ろうとするんですね。
「……もう僕を追ってくるのは止めなさい」
ふる、と首を横に振る。
次第に弁慶さんが苛立って来ているのが解る。
もう残された時間は少ないのだ。もう直ぐ、追っ手が来てしまう。
「……では、はっきりと言いましょう。僕は君が大嫌いです。顔も見たくありません。――二度と、僕の前に姿を現さないで下さい」
ぐ、と拳を握り締め、其れでも私は懸命に首を横に振る。
「君は……」
「私、弁慶さんが好きだから……ッ」
溢れ出そうになる涙を堪えながら面を上げると、不意に柔らかいものが私の唇に触れた。
其れは、今まで冷たい言葉を吐き続けていた人の、あたたかい唇。
優しかったのは触れた直後だけ。次の瞬間には乱暴に、貪るように陵辱するように。
頭が甘く痺れ、身体の力が抜けそうになる。
何故、と頭を巡らす前に、弁慶さんの唇は私から離れていた。
唇が離れても顔はすぐ傍にある。その筈なのに、弁慶さんの顔は強い光に飲み込まれているように、良く、見えない。
辛うじて見えるのは、弁慶さんが其の手に何かを握っているということだけ。
何、この光は……?
「僕も君が好きでした。だから……幸せになってください」
嗚呼。これは――この光の正体は。
「……さようなら、望美さん」
白龍の逆鱗だ――。
ゆっくりと弁慶さんが其の手を緩め、逆鱗を手放す。
逆鱗が私の胸元に戻るよりも先に、あの時空を跳躍する時独特の浮遊感に襲われた。
逆鱗の力を使ったのは弁慶さんだ。私をこのままこの世界から跳ばそうとしているんだ。
――いや。私、弁慶さんと離れたくないのに。
遠ざかる世界の最後に見えた弁慶さんは、少しだけ寂しそうに笑っていたような、そんな気がした。
視界が開け、一面に広がる緑に自分が時空を越えて来てしまったことを悟った。
そう。私が棲んでいた世界ではない、弁慶さんが居る世界へと。
まるで身体を支える糸が切れたようにドサリ、と体を支え切れずに膝から地べたに崩れ落ち、手をついた。
止め処なく涙が溢れ、ぽたりぽたりと零れ落ちる。
恥も外聞も無かった。あるのは深い悲しみと胸を抉るような痛みだけ。
「先輩?! どうしたんですか?! 弁慶さん、先輩が……っ」
私の想いが、私を現代ではなくこの世界に残してくれたのなら。
まだ私、諦めちゃいけないんだ。
「望美さん、具合が悪いんですか?」
先程まで確かに聞いていた声が、気遣わしげに耳に届く。
同じなのに同じじゃない。それでも変わらない声は、より私の涙を促すのだ。
彼の手が肩に掛かったその瞬間、堪え切れずにしがみ付くように抱きついていた。
――幾ら願っても、あの時、あの瞬間には戻れはしない。
だってあれは、此れより“未来”の世界なのだから。
「望美さん……?」
戸惑ったままの弁慶さんに抱きついたまま――
私はただ、声を殺して泣きじゃくり続けた。
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